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「……お兄ちゃんも、信じてるの?」
「いや……信じられれば良かったんだけどな。
俺には、神様は信じられない」
お兄ちゃんは力無く笑いました。
「わたし、お兄ちゃんが心中しようとした、って聞いて、ショックだった。
でも助かって、お兄ちゃんがちゃんと後悔しているんだったら、
それで良いと思う。くよくよしても、しょうがないんじゃないかな?
これから……幸せになればいい、と思う」
「そうだな、俺もそう思う。
あいつも割り切ってくれたらいいんだけど……」
突然お兄ちゃんの目が、驚愕に見開かれました。
ハッとして振り返ると、目の前にgさんの顔がありました。
いつの間に忍び寄って来たのか、完全に虚を
「あっ、あの……」
激情に取り憑かれたかのような、gさんの形相に呑まれて、
取り繕う言葉が出てきません。
「こそこそとっ! わたしの悪口言ってたんでしょっ!」
罵声が雷鳴のようでした。その衝撃に、わたしは棒立ちでした。
不意に目の前に火花が散り、左の頬を
「なにをするんだっ!」
お兄ちゃんが、慌てて背中でわたしをかばいました。
gさんはわたしたちを睨みつけ、音を立てて階段を上がっていきました。
「だいじょうぶか? ○○」
「うん」
わたしが反射的に答えると、お兄ちゃんは首を巡らし、
一瞬躊躇してからgさんの後を追いました。
わたしは頬を手で押さえて、そのまま痺れたように立っていました。
大変なことになってしまった……と思いました。
しばらく待って、2階に上がりました。
耳を澄ましてみても、お兄ちゃんの部屋は静まりかえっていて、
物音一つ聞こえてきません。
長い一夜でした。
翌朝、わたしが台所で遅い朝食の支度をしていると、
誰かが階段を下りてきます。
足音から、gさんだと判りました。
行ってみると、gさんが玄関のドアに手を掛けたところでした。
「……義姉さん?」
gさんは振り返ろうとせず、そのまま外に出て行きました。
尋常でない雰囲気に、後を追おうか迷っていると、
お兄ちゃんが2階から下りてきました。
「お兄ちゃん、おは……」
お兄ちゃんはわたしの横を素通りして、gさんを追って行きました。
わたしが付いていってもどうにもならない、とは思いましたけど、
その場で待っていると気がおかしくなりそうでした。
サンダルに履きかえて、わたしも外に出ました。
門のすぐ外に、立っているお兄ちゃんの背中が見えました。
回り込んで、お兄ちゃんの顔を覗き込みました。
「お兄ちゃん……?」
お兄ちゃんは憔悴しきった顔で、遠くを見ていました。
放心した瞳から、涙が頬を伝っています。
人目もはばからず泣き濡れるその姿に、わたしは物理的な衝撃を感じました。
「お兄ちゃん……義姉さんを、追わなくていいの?」
ついに、お兄ちゃんはオゥオゥと、声を上げて泣き出しました。
「俺には……引き留められなかった、んだ……。
あいつは、出家するそうだ」
「ええっ?」
お兄ちゃんは、身も世もなく泣いています。
大きな体が、子供のように小さく見えました。
わたしは正面から、壊れ物を抱くように、そっと背中に手を回しました。
「お兄ちゃん、わたしはお兄ちゃんの味方だからね。
なんでもするから、なんでもするから、ね、ね?」
どうしたらお兄ちゃんを慰められるのかわからなくて、
わたしも支離滅裂でした。
お兄ちゃんはわたしの頭を抱くようにして、泣き続けました。
手を離したら、お兄ちゃんがどこかに消えてしまうような気がしました。
やがて、お兄ちゃんが上体を起こして、もぎ取るように、
わたしから離れました。
お兄ちゃんの両目は、泣き腫らして真っ赤でした。
「お兄ちゃん……?」
「○○……ありがとう。でも……ダメだ」
「ダメって、なにが?」
「俺は……もう一度この家を出て行く」
「……! ……どうして?」
「このままだと……お前を利用してしまいそうだ……gの代わりに。
そんなのは、酷すぎる」
「……いいよ。わたしは……利用されても」