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お兄ちゃんが居ないあいだ、わたしは1分おきに時計に目をやりました。
二人で居ると時間の経つのが速いのに、ひとりだとゆっくりしか針が進みません。
帰ってきたお兄ちゃんの顔は、嬉しそうに微笑んでいました。
「○○、今夜、俺もここに泊まることにした」
「え? いいの?」
この病院は完全看護で、特に必要が認められなければ、
夜のあいだ付き添うことはできません。
「ああ、O先生に許可を貰ってきた。
検査結果が良くなってきたらしいし、
そのほうが薬になるかもしれないってさ」
腎炎の原因そのものを直接治す薬は、今のところありません。
ですが、ストレスによって、病状が変化することはあります。
「お兄ちゃんは、どこで寝るの?」
「そうだな……ベッドが無いからな。
毛布を借りてきて床に寝るか」
「そんな……お兄ちゃん、風邪ひいちゃう。
……このベッドで寝たら?」
さりげなく勧めたつもりでしたが、心臓が勝手にどっどっと打ちました。
「そうか? そりゃ助かる。
腕枕してやろうか?」
お兄ちゃんは、毛布をめくって早速ベッドに上がってきました。
わたしは、まだ夜になってないのに、とびっくりしました。
「うーん。けっこう寝心地良いな。
いっぺん病院のベッドに寝てみたかったんだ」
お兄ちゃんが伸ばした左腕の上に、わたしは頭を乗せました。
「ん……良い匂いだ。
なんだか眠くなってきた……」
「お兄ちゃん、寝てないの?」
お兄ちゃんは、うーん、と伸びをしました。
「んんっ……ゆうべ、Aと語り明かしたからな……」
お兄ちゃんの声が、とても眠そうでした。
しばらくして、お兄ちゃんの息が、規則正しくなりました。
わたしはお兄ちゃんの脇で、丸くなりました。
少し、煙草臭い匂いがしました。
睡眠は十分足りているはずなのに、わたしも眠くなってきました。
人の気配で浅い眠りから覚めると、Qさんが枕元に渋い顔で立っていました。
「○○ちゃん、どういうコト?」
Qさんがそうささやいたので、わたしも小声で答えました。
「お兄ちゃん、疲れてるみたいなんです。
寝かせておいて……いただけませんか?」
わたしの顔を見て、Qさんがため息をつきました。
「まあ、いいわ。見なかったことにしてあげる。
晩ご飯の前には追い出しておくのよ。
婦長にでも見られたら大変よ〜。
『お兄ちゃん』のベッド持って来たから、
夜はそこで寝てもらって」
Qさんは、床に置いた簡易ベッドを指さしました。
そっとQさんが出て行くと、わたしはお兄ちゃんの寝顔を見つめました。
少し口を開けて、いつもより子供っぽく見えました。
キス、してみたくなりましたが、勝手にするのはずるい、と思って我慢しました。
不意に、お兄ちゃんが寝返りを打って、覆い被さってきました。
わたしは押し潰されて、息が止まりました。
お兄ちゃんの右腕が背中に回ってきて、ぎゅっと抱き締められました。
「痛っ!」
すごい力で、あばら骨が折れるかと思いました。
お兄ちゃんがハッと体を起こし、あわてて横に飛び退いて、
そのままベッドから転がり落ちました。
「!!」
「お兄ちゃん!?」
わたしが呼ぶと、お兄ちゃんは身を起こして立ち上がりました。
「あ……俺……寝てた?」
わたしはどうにか息を整えて、答えました。
「……うん」
「ごっごめん!
あんまり気持ち良かったから……」
「いいけど……怪我、しなかった?」
「あ、ああ、大丈夫大丈夫」
お兄ちゃんは、痺れた左腕を振りながら、照れていました。
夕食が済むまで、病室には奇妙な気恥ずかしさが漂っていました。
そして、夜になりました。