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ぱちん、と刃を開いて、お兄ちゃんがリンゴを剥き始めました。
尖端の鈍い光が、恐ろしげでした。
「お兄ちゃん……いつも、ナイフ、持ち歩いてるの?」
「ん? ああ。
こりゃ自分で研いでるからよく切れる。
川魚を捌くのも楽々だ」
わたしは、少し目を細めてお兄ちゃんを見ました。
「あ、ああ?
なんでそんな目で見るんだよ。
人に向けたり絶対しないって!」
わたしはホッと胸をなで下ろし、すぐに驚愕しました。
お兄ちゃんが、手のひらに剥いたリンゴを載せて、ナイフを入れています。
「お兄ちゃん、危ない!」
「へーきへーき。こんなので切りゃしないよ。
○○は心配性だなあ」
「ううう……」
わたしはぐったりと、枕に頭をもたせかけました。
「ほい」
いきなり、お兄ちゃんがわたしの口に、小さく割ったリンゴを押し込みました。
「もぐもぐ……おにい……」
「ほい」
「もぐもぐ……ずる……」
「ほい。行儀悪いぞ。
食べるか喋るか、どっちかにしろ」
抗議しようとしましたが、リンゴで口を封じられて、何も言えません。
リンゴを呑み込もうと一生懸命咀嚼していると、お兄ちゃんが笑い出しました。
「わはははははは!
リスそっくりだ」
わたしが目に涙を浮かべ、手を振り回すと、お兄ちゃんはさっと跳び退きました。
「そんなへなちょこパンチじゃ当たらないよーん」
その時、入り口から声がしました。
「ここは、病院ですよ」
見ると、Qさんが険しい顔をして立っていました。
「病室で騒ぐのなら、面会許可は取り消しますけど?」
お兄ちゃんは直立不動して、最敬礼しました。
「す、すみません!」
心配になったわたしが見つめると、Qさんの態度が和らぎました。
「ま、今度だけ許してあげる。
それより、お兄さん、O先生が来てくださいって」
「え? 俺が?」
「1階の小児科外来、わかる?」
「はい」
「じゃ、先に行ってて。すぐ追い付くから」
お兄ちゃんがリンゴを置いて出ていくと、Qさんが傍に来ました。
「○○ちゃん、良かったね。
お兄さんが来てくれて」
「はい!」
「あなたが笑ってるとこ、初めて見た……。
わたしも頑張ったんだけどなあ。ちょっと妬ける」
「あ、あの……」
「いいの! 病気の時ぐらい、もっと甘えなさい」
Qさんは、わたしの肩をぽんぽん、と叩いて出て行きました。
待っている時間は、やけにゆっくりと流れているようでした。
残されたリンゴを、半分食べてしまっても、お兄ちゃんは帰って来ません。
わたしは待ちくたびれて、さっきの事がみんな幻だったんじゃないか、
と思えてきました。
と、入り口のドアが開きました。
入ってくるお兄ちゃんの目は、凍てついていました。
「……お兄ちゃん?」
お兄ちゃんの顔が、パッと笑顔に変わりました。
「○○、待たせたな。
けっこう先生の話が長くって、参ったよ」
わたしは椅子に座ったお兄ちゃんに、静かな声で尋ねました。
「先生に、何か言われた?」
「ん? いや、大したことじゃない」
「うそ。
どうして、入ってきたとき、怖い顔してたの?」
お兄ちゃんの顔色が、すうっと青白くなりました。