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駅からお婆ちゃんの家までは、路線バスに乗らねばなりません。
時刻表には、地方の路線バスまでは載っていませんでした。
電話してお兄ちゃんに迎えに来てもらうのが、たぶん最善だったでしょう。
でもわたしは、お兄ちゃんの前に突然姿を現して、驚かせたかったのです。
以前のわたしなら、見知らぬ通行人に声を掛けられなかったかもしれません。
その時のわたしは、ただ目的地を目指すことしか頭にありませんでした。
わたしは駅前ロータリーのバス停で、バスを待っている人にメモを見せて、
どの行き先のバスに乗れば良いのか尋ねました。
しかし運の悪いことに、教えられたバスの行き先は、方向がずれていました。
何かおかしい事に気付いて、運転手に尋ね直した結果、
終点まで行って、また駅に戻ることにしました。
ところが、バスに揺られているうちに、乗り物酔いがぶり返してきました。
わたしは駅に戻る途中で降ろしてもらい、歩いて行くことにしました。
日射しはだいぶ傾いていましたが、アスファルトの道を歩いていると、
体中から汗が噴き出してきました。
途中で何度も歩いている人に道を聞き、目指す所番地に近付いた頃には、
白かったワンピースが、汗と土埃でよれよれになっていました。
白い靴も埃にまみれ、履き慣れていないせいで、靴擦れが痛みました。
疲れた足を引きずって、お婆ちゃんの家があるはずの所まで来ました。
2軒の家のあいだに、細い私道が伸びていました。
家と家のあいだに入ると、奥まった家の玄関の前に、真っ黒に日に焼けた、
髪の短い男の人が、腕組みをして立っているのが見えました。
目と目が合いました。
「……○○、か?」
「…………お兄、ちゃん?」
記憶の中のお兄ちゃんとの、あまりの違いに、わたしは唖然としました。
目の前のお兄ちゃんは、頭を丸刈りにし、黒いタンクトップのTシャツ姿で、
ハーフパンツを穿いて、逞しい肩と臑を剥き出しにしていました。
お兄ちゃんが近寄って来て、頭の天辺から足の爪先まで眺め回しました。
わたしは、自分の服が薄汚れていることを、思い出しました。
「……お兄ちゃん、あんまり、見ないで」
「ん……ああ……すまんすまん。
あんまりお前が変わってたんで、びっくりしてな。
そんなに髪を伸ばしてるとは、思わなかった……」
お兄ちゃんも、妙に慌てているようでした。
「ま、こんな所で立ち話も何だ。
早く中に入って、爺ちゃん婆ちゃんに挨拶しなきゃ」
わたしは、お兄ちゃんに肩を抱かれるようにして、玄関をくぐりました。
帽子を脱いでバッグを置くと、仏間に通されました。
自宅には、神棚も仏壇も無かったので、お兄ちゃんにやり方を聞いて、
会った記憶もない、曾お爺ちゃんの位牌に、線香を上げて手を合わせました。
その次は、奥の間で寝たきりになっている、曾お婆ちゃんにご挨拶です。
わたしは畳の上に正座して、指を突いて頭を下げました。
「お婆ちゃん。○○です」
曾お婆ちゃんは口をふごふごさせて、手を振りました。
曾お婆ちゃんには、わたしが誰だか、よく分かっていなかったようです。
そのあと居間で、お爺ちゃんとお婆ちゃん、叔父さんにご挨拶しました。
挨拶が済むと、夕食になりました。
夕食の席では、お爺ちゃんの影が薄く、お婆ちゃんが大きな声を出して、
一人で喋っていました。
「遠いところを一人でよう来たよう来た。
えろう大きゅうなったな。
6年生になったか?
もっと食べて太らにゃいかんで……」
どうやらお婆ちゃんは耳が少し遠いらしく、勝手に延々と喋るので、
相槌を打つきっかけが掴めません。
おみそ汁は、わたしの舌には濃すぎる味付けで、おつゆを飲めませんでした。
しばらく経って叔父さんが、お婆ちゃんにも聞こえる大きな声で、
話を遮りました。
「母ちゃん。話はもうそれぐらいにしとき。
○○も長旅で疲れとるやろ。
早う風呂に入って休んだ方がええ
風呂は沸かしてあるし、客間に布団も敷いてある」
叔父さんはわたしの父親の弟で、面立ちこそわたしの父親によく似ていましたが、
笑い皺の目立つ優しげな目をしていました。
お兄ちゃんが間取りを説明しながら、脱衣所まで案内してくれました。
わたしは下着の替えだけは、ディバッグに入れて持って来たものの、
パジャマや他の着替えは、別に宅配便で送っていました。
「お兄ちゃん」
「……ん?」
「荷物、明日届くと思うけど、今夜着るパジャマが無いの。
お兄ちゃんのパジャマ、貸してくれない?」
お兄ちゃんは、真面目くさった顔で答えました。
「ん……それは困ったな。
こっちじゃ、夏場は寝苦しいから、みんな裸で寝るんだ。
余分の布団も無いぞ。俺の布団で寝るか?」