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お兄ちゃんの顔色は怒りのあまり蒼白でした。
まるで、青白い炎が内側で燃えているようでした。
これ以上隠し事をしても……なんにもなりません。
わたしは心臓が氷に閉ざされているような、胸苦しさに襲われました。
痛む胸を押さえながら起きあがり、言葉を吐き出しました。
「お兄……ちゃん」
お兄ちゃんは、危険な獣のように歯を噛んでいました。
「わたし……わかっちゃった。わかっちゃったよ。
お父さんには、わたしはもう、どうでもいいんだって」
万力で締め付けられたように硬くなっているわたしの背中を、
お兄ちゃんが撫でさすりました。
それでも、呼吸が乱れ、言葉が震えるのを抑えられませんでした。
「お父さんは、わたしを……『廃人』だって言った」
「はいじん?」
意外な言葉だったのか、お兄ちゃんが聞き返してきました。
「人間として、もう役に立たなくなった人のこと」
「違う、お前は廃人なんかじゃない!」
「わたし、お父さんの書斎を荒らした」
「え?」
「金庫を開けたら、中に通帳が入ってた。
お父さん、お金に困ってたわけじゃなかったんだ。
ただ、わたしのために使いたくなかっただけ」
「畜生……」
わたしの背中に回された手に、力が籠もりました。
お兄ちゃんにも、わたしにかける言葉が見つからないようでした。
「お兄ちゃん、わたしに、考えがあるの。
お願いなんだけど、聞いてくれる?」
「考え……? 言ってみろ」
次の言葉は、苦しくてなかなか口から出てきませんでした。
「……………………。
お兄ちゃんに、家から出ていって、ほしい」
「え……!? なんだって?」
お兄ちゃんは混乱したのか、訳がわからない風に首を振りました。
「お兄ちゃんは、我慢してるでしょ?
わたしのために、お父さんといっしょに暮らしてる。
お父さんの、言いなりになって、高校に行って、大学に行って、
このまま、お父さんの後を継ぐつもり?
嫌じゃないの?
お兄ちゃんの夢は……どうなったの?
料理人になりたい、って言ってた、あの夢は」
わたしは真っ直ぐに、お兄ちゃんの瞳を見ました。
「しかし……あの家から俺が居なくなったら、お前は……」
「わたしは……我慢するのに慣れてる。
ずっと我慢してきたんだし、もう、慣れちゃった。
でも……お兄ちゃんは違う。
このままだと、お兄ちゃんがダメになっちゃうよ。
わたし……お父さんに冷たくされても我慢できる。
でも、わたしのために、お兄ちゃんが自分の夢をあきらめるのは、
我慢できない。できないよ」
お兄ちゃんは怒りを忘れて、真剣に考え込みました。
「お前は……どうするんだ? あの家でひとりになって」
「今までと、なにも変わらない。お兄ちゃんが急に居なくなったら、
お父さんはきっと怒る。でも、わたしはなにも喋らない。
お兄ちゃんが居なくなっても、お父さんは警察には届けないと思う。
見栄っ張りだから。
ホントは……わたしもお兄ちゃんに付いて行きたい。
でも、中学生で病気のわたしがいっしょじゃ、足手まといになる。
それに、二人とも居なくなったら、事件になっちゃう。
だから、わたしは……待ってる」
「待つって、なにを?」
「わたしが卒業して……病気が治って……お兄ちゃんに余裕ができたら、
迎えに……来てほしい。それが、わたしの夢」
お兄ちゃんは目をつぶって、長いあいだ考えていました。
やがて、目蓋を開けて、言いました。
「わかった。俺も肚を決めた。部屋と仕事を探すよ。
もう親父の言いなりになるのは止めだ。
仕事はなんとかなる。知り合いのやってる喫茶店で雇ってもらえると思う。
何年かかるかわからないけど、お前を迎えに行く。約束する」
「約束は、しなくていい。これは、わたしの夢だから。
未来のことは、誰にもわからない。だから、縛りたくない」
お兄ちゃんはわたしの目を見返して、感極まったようにつぶやきました。
「○○……お前は、そんなことを、たったひとりで考えていたんだな。
俺は、自分が情けないよ。やっぱりお前のほうが、大人だ」
お兄ちゃんとわたしは二人とも、まだ無力な子供でした。
けれど、お兄ちゃんの目には、自嘲だけでない微笑みがありました。