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朝になって、お兄ちゃんの囁くような声で起こされました。

「○○」

頭を起こすと、お兄ちゃんは床に座り込んでいました。

「なんでお前まで、ここで寝てるんだ?」

お兄ちゃんのしかめっ面を見て、反射的に正座して謝ってしまいました。

「ごめんなさい」

「あ、いや、別に謝らなくていい……。
 ベッドで寝ないと、風邪引くぞ?」

「……お兄ちゃんは、風邪引いた?」

「俺は丈夫だからこれぐらい平気だけどな……。
 ああ、顔しかめてるのは、ちょっと頭痛いだけだ。心配ない。
 走ってきて、シャワー浴びれば治る」

静かに言って、お兄ちゃんは立ち上がりました。

「じゃあ、わたしは朝ご飯の支度してる」

「お前は寝てていい」

そう言い残して、お兄ちゃんは階段を上がっていきました。
わたしは今さら、眠れそうにありませんでした。

わたしも自分の部屋に戻って、枕とタオルケットを元に戻し、
着替えをしました。

お兄ちゃんの態度が、いつもと違うように思えました。
二日酔いのせいだったのかもしれません。

お兄ちゃんが部屋を出て、階段を下りていく気配がしました。
見送らないと、と思いながら、足が床に吸い付いたように、動きません。

玄関のドアが閉まる音を聞いてから、わたしは部屋を出ました。
台所に下りて、機械的に食事の支度をしました。

お兄ちゃんを待つあいだ、焦れったいほどゆっくりと時間が流れました。
お兄ちゃんが帰って来たとき、わたしが何を考えていたかはわかりません。

物音でびくっとして、考えはどこかに飛んでいってしまいました。
わたしはダイニングで座ったまま、お兄ちゃんが来るのを待ちました。

「○○、おはよう。まだ挨拶してなかったな。
 もうご飯食べられるのか」

「お兄ちゃん、おはよう。もう、出来てる」

わたしは立ち上がって、ご飯をよそいに行きました。
お兄ちゃんの態度は、いつもと変わりないように見えました。

わたしは自分の声の抑揚が、おかしくなったような気がしました。
動作もおかしくないか、と考えると、ますますぎこちなくなりそうでした。

ご飯を食べながら、お兄ちゃんが話しかけてきました。

「○○、今日は暇か?」

宿題を済ませたわたしは、いつも暇でした。

「うん」

「じゃあ、どっか行くか?」

「うん、どこに?」

「○○は行きたいとこないのか?」

「どこでも良い」

お兄ちゃんと一緒に居るだけで、空気が張り詰めているようでした。
自分の心臓の音が、どくんどくんと胸で響きました。

お兄ちゃんが「う〜〜ん」と困ったような表情をしたので、
わたしはあわてて言いました。

「映画。映画館行きたい」

「今なにか観たい映画でもやってるのか?」

「……知らないけど」

「まぁいいよ。映画館行こう」

2人乗りの自転車で駅前に出て、電車に乗りました。
目的地の駅に近づくと、電車の窓越しに映画の看板がいくつも見えました。

「○○、どれがいい?」

「ジュラシックパークが良い」

「お前……恐くないのか?」

「トカゲとか虫は平気。犬のほうが恐い」

「じゃ、それにするか」

ジュラシックパークは、原作を文庫本で読んだばかりでした。
バタフライ効果がどんな風に説明されるか、興味がありました。

次の上映時間までかなり時間があったので、先に食事をとりました。
パスタの専門店で、大きな皿に最低2人前で注文する仕組みでした。

運ばれてきたトマトソースのパスタは、3人前以上あるように見えました。
その大半をお兄ちゃんが片付けました。

早めに映画館に行ってチケットを買いましたが、
ロビーに入ると次回上映待ちのお客さんがたくさん居ました。

「扉が開いたら俺が席取りにいくから、
 お前は後からゆっくり来い」

「うん」

前の上映が終わり、大きな扉が開きました。
お兄ちゃんは素早く人波を分けて入っていきました。

出てくる人が居なくなってから、わたしが中に入ると、
前から5列目ぐらいの真ん中に近い席に、お兄ちゃんが立っていました。

照明が暗くなり、映画が始まりました。
映画は文庫本で2冊の原作を短縮した、アクション物になっていました。
小さなトカゲは恐くないのですが、大画面で恐竜が走り回るのは、
迫力がありました。

思わず身をすくめると、肘掛けに乗せた右手をお兄ちゃんの左手が包みました。


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