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玄関で短いブーツを履き、フルフェイス型のヘルメットをかぶりました。
顎紐をきちんと留めているか、お兄ちゃんが念入りに点検しました。
わたしはなんだか、宇宙服を着せられたような気がしてきました。

お兄ちゃんが家の前の道にバイクを押して来て、エンジンをかけました。
ドドドドドドというお腹の底に響くような低いエンジンの音が、
うなり声のように伝わってきました。

「横に短いステップが畳んであるだろ。短い棒みたいなヤツ。
 それを両側とも起こして、左側のを足場にして一気にまたがるんだ。
 降りたら元通り畳む。一回やってみろ」

ゆっくりまたがろうとすると、うまくいきません。
お兄ちゃんの腰を掴んで、思い切って右足を大きく振り上げると、
バイクの後ろの席にまたがることができました。

地面は思ったより遠くて、両足ともぜんぜん届きません。
腰のほうから、小刻みなエンジンの振動が伝わってきました。

「腕を前に回して、もっとしっかり掴まるんだ。
 気を抜いてるとスタートのとき後ろに落ちるぞ」

腕に力を込めて、ぎゅっとお兄ちゃんの背中に胸を押しつけました。

「行くぞ」

背中を引っ張られるようなショックとともに、バイクが走り出しました。
エンジンと風の音に負けない大声で、お兄ちゃんが言いました。

「カーブでバイクを倒したときは、その方向に一緒に倒れるんだ。
 俺がするとおりに真似しろよ」

電車や車とはまったく次元の違うスピード感でした。
向かい風のほとんどは、お兄ちゃんの体で遮られましたけど、
風を切って疾走する感覚を、わたしは初めて知りました。

ヘッドライトの光に切り取られた地面が、闇の中から湧いてくる。
一瞬の後に、お兄ちゃんとわたしを乗せたバイクが駆け抜ける。
車を追い越すときに、後ろから引かれる力に逆らう。
カーブでは、世界が斜めになる。

どれぐらい時間が経ったのか、自動販売機がいくつも並んでいる所で、
バイクが停まりました。

「休憩。降りてコーヒーでも飲もう」

わたしは腕と体に力を入れすぎていて、ぎくしゃくと地面に降り立ちました。
地面を踏む足の裏が、なんだか頼りないような気がしました。
お兄ちゃんはヘルメットを脱いで、にやにやしながらわたしに顔を向けました。

「どうだ? 怖かったか?」

「ううん……怖くはなかった。おもしろかった」

「ふぅん。お前も意外とスピード狂の素質があるのかな?」

わたしもヘルメットを脱ぐと、プルタブを上げた缶コーヒーを手渡されました。

「車の少ない道を通ってきたから、臭くなかっただろ?」

「うん」

「トレーラーの後を走ったりすると、排気ガスで息が詰まるよ。
 ……そうだ。対向車線をバイクがやってきたら、Vサインを出すんだ」

「Vサイン?」

「ピースサインって言うんだけどな。バイク乗り同士の挨拶さ。
 ハンドルで手がふさがってるから、大きく手を挙げられないだろ?
 お前もやってみろよ」

「うん」

また走り出して、交差点で停まりました。
向かい側の横断歩道の停止線に、黒い大きなバイクが停まっていました。

お兄ちゃんがピースサインを出しました。
わたしも、左手を離して、ピースサインを作りました。
黒いバイクの男の人が、右手を少し挙げてピースサインを返してくれました。

信号機の色が変わって、走り出しました。

「な?」

「うん」

見知らぬ人と挨拶を交わすのに、わたしはどきどきしました。
それから、対向車線にバイクが現れないかと、目で探すようになりました。

バイクは山のほうに向かっているようでした。

「お兄ちゃん!」

「なんだー!」

「どこに行くのー?」

「俺がこないだから走りに行ってるとこだ。おもしろいぞー」

風を切る音の中で話をするには、思い切り大声を上げなくてはいけませんでした。
やがて道は、うねうねしたカーブの多い上り坂になりました。
前や後ろを走る車やバイクはなく、対向車もほとんどありません。

片側は山を切り崩した岩壁、反対側のガードレールの向こうは谷底です。
カーブはだんだんと急になってきました。
スピードを落とすのかと思ったら、バイクの倒れる角度が深くなりました。

わたしは必死にお兄ちゃんの腰にしがみついて、いっしょに体を傾けました。
お兄ちゃんとわたしとバイクが1つになって、山の中のカーブを駆け抜けました。
喉から心臓が飛び出してくるような気がしました。

見ると、足の下をセンターラインが凄い迅さで流れて行きました。
時々ちらりと、真っ黒な谷底がガードレール越しに見えました。
生きた心地がしませんでした。

カーブを抜けるとき、足の下のほうで火花が流れました。
バイクのステップが路面に接して、アスファルトを削っているのです。
わたしは舌が凍り付いてしまって、「停めて」という声も出せません。

バイクの車体を倒しすぎたのか、ステップに重みがかかって、
一瞬後輪が浮きました。わたしは「死ぬ。いま死ぬ」と思いました。


ヤバイお兄さん
2017-12-15 20:44:53 (6年前) No.1
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