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「うん」
わたしが足早に立ち去ろうとすると、お兄ちゃんは追い打ちをかけました。
「H、風呂場を覗くと嫌われるぞ?」
「そんなことするわけないやろ!」
わたしは振り返って、お兄ちゃんを睨みつけました。
やっぱりにやにや笑っています。
「お兄ちゃん!」
「くくく……すまんすまん。Hの反応があんまり可愛いもんでな」
「△△兄ちゃん嫌いや」
Hクンはふくれっ面でそっぽを向いていました。
お兄ちゃんは時々、ひどく悪のりすることがあります。
わたしはHクンの怒りを和らげなければ、と思いました。
「Hクン……ごめんね。お兄ちゃんと仲直りしてくれる?」
「……○○姉ちゃんが謝ることと違うけど……わかった」
「H、すまん。
ところで、今のうちにトレーニングに付き合ってくれ。
お前も少しは走らないと運動不足になるぞ。
ウェアは貸してやるから」
「えーー? △△兄ちゃんの『少し』は少しとちゃうやん」
Hクンは嫌がりながらも、お兄ちゃんに引っ張られて行きました。
わたしはそのあいだに、お風呂に入ることにしました。
湯船に肩まで浸かって、天井を見上げながら考えました。
わたしも元気だったら、お兄ちゃんたちといっしょに走れるのに、と。
わたしが自分で頭を洗うのは、久しぶりでした。
腕のだるさに、お兄ちゃんに頼りすぎていたことを実感しました。
お風呂から上がってパジャマに着替え、お兄ちゃんたちの帰りを待ちました。
平然とした様子のお兄ちゃんと、苦しそうに息を切らせたHクンが帰ってきました。
「H……だらしないぞ。あれっぽっち走ったぐらいで」
「ぜえ、ぜえ……△△兄ちゃんは化けもんやで……」
2人のおしゃべりは、途切れることがありませんでした。
田舎でもこうして、仲の良い兄弟のように過ごしているのだろうか……
そう思うと、胸がちくりと痛みました。嫉妬だったのかもしれません。
「○○は先に寝てていいぞ」
そう言って、お兄ちゃんはHクンとお風呂場に向かいました。
わたしは自分の部屋のベッドに入って、横になりました。
1人で寝るベッドは、ひどく広々としていました。
お兄ちゃんとHクンに、置いて行かれたような気がしてきました。
やがて、階段を上る足音が聞こえてきました。
こんこん、とノックの音がしました。
「はい」
ドアが少し開いて、顔が覗きました。
「○○、おやすみ」
「○○姉ちゃん、おやすみなさい」
「おやすみなさい……」
目をつぶってじっとしていても、なかなか寝付けませんでした。
わたしはそっと起き出して、部屋を出ました。
お兄ちゃんの部屋のドアに耳を近づけると、まだ低く話し声がしています。
しばらくためらってから、わたしはドアを軽くノックしました。
ドアが開きました。お兄ちゃんの怪訝そうな顔が覗きました。
「どうした?」
「……わたしも、お話聞いて良い?」
部屋の奥から、Hクンの弾んだ声がしました。
「○○姉ちゃんも来たん?」
「うん。1人だと、仲間はずれみたいだから」
お兄ちゃんの脇を通り抜けて部屋に入ると、ベッドの横に敷いた布団に、
Hクンが寝そべっていました。
「○○はベッドに寝るといい。俺はHと寝る」
お兄ちゃんのベッドに入って、匂いを吸い込むと、ホッとしました。
お兄ちゃんはHクンの布団に入って、くっつきました。
「お兄ちゃん、窮屈じゃない?」
「なーに、夏だからな、布団から転げ出しても風邪ひいたりしないさ」
お兄ちゃんとHクンの、ひそひそとしゃべる声を子守歌にして、
わたしは眠りに就きました。
ふと、なにかの物音で目が覚めました。
寝惚け眼で振り向くと、薄暗い部屋に立つ影が見えました。
お兄ちゃんとHクンが、ごそごそと身支度をしているようでした。
「お兄ちゃん?」
「○○、起こしちゃったか?」
「どこに行くの?」
「ちょっとな……寝苦しいから散歩してこようかと思って」
「わたしも行く」
慌ててズボンを引き上げようとしているHクンの脇を素通りして、
わたしはふらふらと自分の部屋に戻りました。