22:
わたしは右手をポケットに入れていましたが、お兄ちゃんと手を繋いでいたので、
左手の甲が寒さに痺れていました。
でも、お兄ちゃんの手を離したくなくて、黙っていたのです。
お兄ちゃんはわたしの手を握ったまま、右手をジャケットのポケットに入れました。
「あったかいだろ?」
「うん」
左手が熱くなって、手のひらに汗を掻くほどでした。
本当に前に来たことの無い、夜の知らない街を歩きました。
いつも冗談を絶やさないお兄ちゃんが、ずっと黙っていました。
それでも、言葉は何も要りませんでした。
このままずっと夜が明けずに、どこまでもどこまでも、
お兄ちゃんと二人で歩き続けられれば良いのに、と思いました。
でもやがて、足が痛くなって来て、わたしの歩みが遅れがちになりました。
お兄ちゃんが立ち止まり、こう言いました。
「疲れたか?
そろそろ帰ろう」
これで、魔法は解けました。
「同じ道を戻るんじゃ面白くないな。
違う道を通るぞ」
帰途に就きながら、なぜだかさっきまで感じなかった、
何か言わなくてはいけない、という焦燥が湧いて来ました。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「……危ない事、しないでね。
お兄ちゃんが居なくなったら、
わたし、どうしていいか分からない……」
お兄ちゃんはしばらく黙った後、しみじみとした口調で言いました。
「○○……お前はいい子だ。
でもな、お兄ちゃんはホントは悪い奴なんだ。
あの家に居ると、
どんどんどんどん胸の奥で黒いモンが膨らんで来て、
爆発しそうになるんだ。
だから、夜中にこっそり捨てに行くんだ」
月明かりに照らされた、お兄ちゃんの遠くを見る横顔は、とても寂しそうでした。
その寂しさを消したくて、必死に言葉を探しました。
「お兄ちゃんは悪くない。
絶対悪くない。
もし世界中の人がお兄ちゃんの敵になっても、
わたしはお兄ちゃんの味方だから」
お兄ちゃんはわたしの顔を見て、うっすら笑いました。
「ん、ありがと。
お前はやっぱりいい子だ」
でも、わたしの言葉に、お兄ちゃんの苦しみを無くす力はありませんでした。
帰りたくない家への道は、あっけないほど早く、終点に着きました。
物音を立てないように階段を上ると、お兄ちゃんは別れ際に、
「おやすみ」と囁いて自分の部屋に消えて行きました。
疲れ切っていたわたしは、お兄ちゃんの事を考えようと思いながら、
ベッドに潜り込むとすぐに、眠りに落ちました。
翌朝、お兄ちゃんは、いつもと変わりのない顔で起きて来ました。
わたしは眠い目を擦りながら、お兄ちゃんはいつ寝ているのだろう、と思いました。
それからも、日常は一見平坦に過ぎて行きました。
でも、父親が帰って来た時には、
お兄ちゃんが針鼠のような空気を身にまとうのが分かりました。
お兄ちゃんは相変わらず、夜中になると夜の街に姿を消しました。
わたしは滅多に見ない夢を見ました。
お兄ちゃんが、真っ黒いどろどろした海に呑まれて行く悪夢でした。
目が覚めても、体の震えが止まりませんでした。
お兄ちゃんの汗が染みたシャツを、洗濯機に入れながらわたしは考えました。
わたしでは駄目なんだ、と。
わたしではお兄ちゃんを助けてあげる事が出来ない、と。
お兄ちゃんを助けられそうな心当たりは、たった一人しか思いつきませんでした。
わたしは自分から、電話を掛けた事がありませんでした。
電話を掛ける友達が居なかったからです。
その人の電話番号も、もちろん知りません。
普段、家で外に電話を掛けるのは、お兄ちゃんだけでした。
わたしはお兄ちゃんが帰って来る前に、電話機のリダイヤルボタンを押しました。
緊張して鼓動がどくん、どくん、と耳を打ちました。
コールの音が永遠に続くような気がしました。
かちゃ、という音がして、誰かが出ました。
「もしもし……わたし、××○○と申します」
「あら? ○○ちゃん?
どうしたの? 電話なんて」
Cさんの声が聞こえて来ました。