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消灯時間までずっと、お兄ちゃんとの会話は弾みませんでした。
抱き締められた瞬間を思い出すたびに、頭の中が白く飛んでしまって、
お兄ちゃんが言葉少なになっていることすら、気付きませんでした。
廊下の灯りが落とされ、部屋の蛍光灯も、お兄ちゃんが消しました。
薄暗がりの中で、お兄ちゃんがポロシャツとリーバイスを脱いで、
簡易ベッドに潜り込みました。
「おやすみ、○○」
「おやすみなさい……お兄ちゃん」
静まり返った夜の病室に、自分の息遣いだけが聞こえました。
目が冴えて、どうしても眠ることができません。
わたしは、声を低めて呼びかけました。
「……お兄ちゃん、もう、寝た?」
「……ん、なんだ?」
「もう少し、お話したい」
「……そうだな。たまには、昔話でもするか」
「大きな声出すと、看護婦さんに怒られる。
こっちに、来て」
「……見つかったらまずいぞ?」
「だいじょうぶ。
見回りの時間まで、あと2時間あるから」
ごそごそと、お兄ちゃんが毛布の中に潜り込んできました。
お兄ちゃんはこちらを向いて、肘枕をつきました。
お兄ちゃんの吐く息が、顔にかかるほどの近さでした。
「ねえ。わたしが小さい頃のこと、覚えてる?」
「ん、ああ。だいたいはな」
お兄ちゃんは、ぽつり、ぽつりと話し始めました。
「お前が小学校に上がる前のことだ。
俺はその時、小学2年か3年だった。
俺は気が弱くて、よく女の子にも泣かされてた」
「えええ!?」
わたしは思わず声を上げてしまいました。
お兄ちゃんが弱虫だったなんて、想像もつきません。
「公園で遊んでて、俺が泣いて家に帰ったら、お前がいてな。
俺が泣かされたって言ったら、お前、どうしたと思う?」
お兄ちゃんは、くくく、とくぐもった笑い声を漏らしました。
「……? 覚えてない」
「お前、すごい勢いで家を飛び出して、公園にすっ飛んでいったじゃないか。
途中で拾った棒切れを振り回して、その女の子を公園中追いかけ回した」
「!……うそ……でしょう?」
「ホントだって。
俺が追い付くと、お前は『お兄ちゃんを泣かした、許さない』
って言いながら、泣いて謝る女の子を棒でバシバシ殴ってた。
子供の力だから怪我はなかったけどな」
「本当……なの?」
「おかげで、俺は『妹に助けられた弱虫』って、ずいぶんからかわれたよ」
まったく身に覚えがありませんでしたが、わたしは申し訳なさに縮こまりました。
「……ごめんなさい」
「いや、いいって。助けようとしてくれたんだからな。
……お前はあんなに元気だったんだ。
大人になったら、また体質が変わって健康になるかもしれない」
お兄ちゃんの手のひらが、わたしの髪を撫でました。
「お兄ちゃんは、大人になったら何になるの?」
お兄ちゃんの手の動きが止まりました。
「……ん……まだ、わからん」
「料理人になるんじゃ、なかったの?」
「……なりたい、けどな。親父は俺が行く高校や大学を、もう決めてるみたいだ。
俺が調理師専門学校に行きたいって言っても、耳を貸しやしない」
お兄ちゃんは、寂しげに言いました。
「早く、大人になりたいな。
そうすれば、大人の言いなりにならずに済む。
……○○は、何になりたいんだ?」
考えましたが、未来はまだあまりにも、漠然としていました。
「……わからない」
「お前なら、学者や小説家なんかが向いてると思うけどな」
わたしの望む未来で、はっきりしているのは、ひとつだけでした。
わたしは、お兄ちゃんの胸に顔を寄せ、そっとつぶやきました。
「……お兄ちゃんと、ずっと、いっしょにいたい……」
聞こえたのかどうか、お兄ちゃんは返事をしませんでした。
わたしはお兄ちゃんの胸に抱き付いたまま、いつしか眠りに落ちていました。
目が覚めると、お兄ちゃんはもう服を着て、椅子に座っていました。