74:


消灯時間までずっと、お兄ちゃんとの会話は弾みませんでした。
抱き締められた瞬間を思い出すたびに、頭の中が白く飛んでしまって、
お兄ちゃんが言葉少なになっていることすら、気付きませんでした。

廊下の灯りが落とされ、部屋の蛍光灯も、お兄ちゃんが消しました。
薄暗がりの中で、お兄ちゃんがポロシャツとリーバイスを脱いで、
簡易ベッドに潜り込みました。

「おやすみ、○○」

「おやすみなさい……お兄ちゃん」

静まり返った夜の病室に、自分の息遣いだけが聞こえました。
目が冴えて、どうしても眠ることができません。
わたしは、声を低めて呼びかけました。

「……お兄ちゃん、もう、寝た?」

「……ん、なんだ?」

「もう少し、お話したい」

「……そうだな。たまには、昔話でもするか」

「大きな声出すと、看護婦さんに怒られる。
 こっちに、来て」

「……見つかったらまずいぞ?」

「だいじょうぶ。
 見回りの時間まで、あと2時間あるから」

ごそごそと、お兄ちゃんが毛布の中に潜り込んできました。
お兄ちゃんはこちらを向いて、肘枕をつきました。
お兄ちゃんの吐く息が、顔にかかるほどの近さでした。

「ねえ。わたしが小さい頃のこと、覚えてる?」

「ん、ああ。だいたいはな」

お兄ちゃんは、ぽつり、ぽつりと話し始めました。

「お前が小学校に上がる前のことだ。
 俺はその時、小学2年か3年だった。
 俺は気が弱くて、よく女の子にも泣かされてた」

「えええ!?」

わたしは思わず声を上げてしまいました。
お兄ちゃんが弱虫だったなんて、想像もつきません。

「公園で遊んでて、俺が泣いて家に帰ったら、お前がいてな。
 俺が泣かされたって言ったら、お前、どうしたと思う?」

お兄ちゃんは、くくく、とくぐもった笑い声を漏らしました。

「……? 覚えてない」

「お前、すごい勢いで家を飛び出して、公園にすっ飛んでいったじゃないか。
 途中で拾った棒切れを振り回して、その女の子を公園中追いかけ回した」

「!……うそ……でしょう?」

「ホントだって。
 俺が追い付くと、お前は『お兄ちゃんを泣かした、許さない』
 って言いながら、泣いて謝る女の子を棒でバシバシ殴ってた。
 子供の力だから怪我はなかったけどな」

「本当……なの?」

「おかげで、俺は『妹に助けられた弱虫』って、ずいぶんからかわれたよ」

まったく身に覚えがありませんでしたが、わたしは申し訳なさに縮こまりました。

「……ごめんなさい」

「いや、いいって。助けようとしてくれたんだからな。
 ……お前はあんなに元気だったんだ。
 大人になったら、また体質が変わって健康になるかもしれない」

お兄ちゃんの手のひらが、わたしの髪を撫でました。

「お兄ちゃんは、大人になったら何になるの?」

お兄ちゃんの手の動きが止まりました。

「……ん……まだ、わからん」

「料理人になるんじゃ、なかったの?」

「……なりたい、けどな。親父は俺が行く高校や大学を、もう決めてるみたいだ。
 俺が調理師専門学校に行きたいって言っても、耳を貸しやしない」

お兄ちゃんは、寂しげに言いました。

「早く、大人になりたいな。
 そうすれば、大人の言いなりにならずに済む。
 ……○○は、何になりたいんだ?」

考えましたが、未来はまだあまりにも、漠然としていました。

「……わからない」

「お前なら、学者や小説家なんかが向いてると思うけどな」

わたしの望む未来で、はっきりしているのは、ひとつだけでした。
わたしは、お兄ちゃんの胸に顔を寄せ、そっとつぶやきました。

「……お兄ちゃんと、ずっと、いっしょにいたい……」

聞こえたのかどうか、お兄ちゃんは返事をしませんでした。
わたしはお兄ちゃんの胸に抱き付いたまま、いつしか眠りに落ちていました。
目が覚めると、お兄ちゃんはもう服を着て、椅子に座っていました。


残り127文字