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お兄ちゃんは、わたしを車椅子に座らせ、膝から下を毛布で覆いました。
継ぎ目のないリノリウム張りの廊下を、滑るように進みました。
時折、すれ違う看護婦さんが、挨拶してきました。
廊下を進んでいるだけで、この病院はずいぶん広いことがわかりました。
エレベーターの前に来て、お兄ちゃんがボタンを押しました。
「お兄ちゃん、どこ行くの?」
「1階の売店に行こう。コンビニぐらいの広さがある」
外来の診察時間が終わっているせいか、売店は空いていました。
お菓子や日用品の他に、お見舞いの花束や介護用品がたくさんありました。
雑誌のコーナーで、お兄ちゃんが言いました。
「漫画でも買って行くか?」
「読書はまだ、禁止されてるから……」
とは言うものの、活字中毒のわたしは、薬の注意書きの紙を、
ベッドの中で暗記するほど繰り返し読んでいました。
「大丈夫。
なんにも娯楽がないと、かえってストレスが溜まるそうだ。
テレビはダメだけど、読書だけは認めてもらった」
「ほんと?」
わたしはいそいそと、新刊の文庫本を数冊と、今週発売の少女漫画誌を全部、
指さしました。お兄ちゃんは苦笑いしました。
「あのなぁ……いっぺんに全部読むんじゃないぞ?」
「わかってる」
お兄ちゃんが売店のおばさんと話をして、新刊入荷予定のリストを貰いました。
余分にお金を預けて、使ったぶんだけ引いてもらうことになりました。
お兄ちゃんは、白くて大きい花の花束を買いました。
「お兄ちゃん。それ、何の花?」
「クチナシだ。良い匂いだぞ」
お兄ちゃんが花束をわたしの前にかざすと、むせ返るような甘い香りがしました。
「○○、何か見たいものはあるか?」
「外が見たい」
1階の外来の待合い場所に、大きなガラス窓があって、庭が見えるはずです。
「そっか、じゃ、行こう」
お兄ちゃんは買った物を、後で取りに来ると言って、おばさんに預けました。
わたしたちはまた、エレベーターホールに来ました。
「? どこに行くの?」
「まあ、待ってろ」
エレベーターに乗って、お兄ちゃんは一番上のボタンを押しました。
エレベーターを降りると、屋上でした。
何も干していない物干し竿が、たくさん並んでいました。
フェンスの傍まで押されて来ると、茜色から紫色に変わっていく空の下に、
夕暮れの街を一望できました。
「綺麗だな……」
お兄ちゃんが、静かに言いました。
「うん……」
遠い世界のように思えていた街が、とても懐かしく見えました。
人の住む世界の美しさに、わたしは初めて呑まれていました。
「退院したら、またあそこで遊べるさ」
「……うん。
でも、約束、守れなくなっちゃった……」
「約束……?」
「一緒に初詣に行く、約束。
冬休みに、田舎に行けないと、思う」
退院できても、遠くに旅行するのは、絶望的でした。
「俺がこっちに来るよ」
わたしは、はあ、と大きなため息をつきました。
「……それは、ダメ」
「え……どうしてだ?」
「お兄ちゃん、受験でしょ。
合格のお守りを貰いに行くのに、
こっちに帰ってくる暇なんて、無い。
わたしのせいでお兄ちゃんが落ちたりしたら、
わたし、耐えられない」
お兄ちゃんはしばらく、何も言いませんでした。
「寒くなってきたな。帰るか」
わたしたちは、病室に戻りました。
面会時間が過ぎたので、お兄ちゃんは「明日また来る」と言って帰りました。
ひとりの部屋でわたしは、クチナシの甘い匂いに包まれて、眠りました。