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春の陽気が、わたしに新しい生活を運んできました。
まだ着慣れない制服、わたしの細腕では一度に持ちきれないほどの教科書、
そして……誰ひとり見知った顔のない教室。

同じ中学の出身者には、わたしのことを覚えている人も居たでしょう。
けれど、ろくに中学に登校していなかったわたしには、心当たりがありません。
少しも寂しくなかった、というと嘘になります。

でも、お兄ちゃんが、仕事をやりくりして入学式に来てくれました。
それだけで、わたしには十分でした。
山のような教科書と副読本を、お兄ちゃんが代わりに持ってくれました。

最初のホームルームでどんな自己紹介をしたのか、思い出せません。
きっと緊張して上の空だったのでしょう。
クラスメイトたちの顔と名前を覚えるのは苦手中の苦手でした。

幻のように過ぎたホームルームの後、わたしは人の群れから離れ、
お兄ちゃんと二人、校庭の桜並木の下を通って帰途に就きました。

バス停へと向かう道を歩きながら、お兄ちゃんが訊いてきました。

「新しいクラス、どうだった?」

「う……ん。よくわからない。馴染めるといいんだけど」

「また、友達ができるといいな」

「うん……お兄ちゃん、鞄重くない?」

お兄ちゃんの持っているわたしの学生鞄とスポーツバッグには、
買ったばかりの教科書と副読本がぎっしり詰まっていました。

「これぐらい軽いもんだ。しかし、お前には重すぎるかもな……。
 バス通学で座れなかったらきついぞ?」

殺人的な通学ラッシュに巻き込まれたら、本当に死んでしまいそうです。

「なるべく、混む時間をを避けて乗るようにするつもり」

「無理するなよ」

住宅街の中にある小さな公園が目に付きました。
このまま真っ直ぐ帰ってしまうのは残念でした。

「ちょっと、休んでいかない?」

「ん? 疲れたか?」

「そうじゃないけど」

背もたれのない木のベンチに腰を下ろして、見上げると、
頭上は粗い格子状の屋根になっています。
お兄ちゃんが格子に巻き付いたつるに手をやりました。

「これ、藤棚じゃないか?」

あいにくと藤の花はまだ咲いていませんでしたが、
季節になれば咲きこぼれる花房が甘く匂うのだろうな、と思いました。

「咲いていれば絵になったのにね……」

わたしの声には無念さが滲んでいたかもしれません。
お兄ちゃんが笑いました。

「○○は欲張りだな。今日は桜だけでいいじゃないか」

「お兄ちゃんは、桜の花が好き?」

「ああ、散り際が潔すぎるとは思うけどな」

「桜の花言葉はね、『心の美しさ』なんだって」

「へぇ、さすがによく知ってるな。じゃ、藤の花は?」

「……忘れちゃった」

「がくっ。感心して損した」

お兄ちゃんがおどけて膝を折りました。
言えなかった藤の花言葉は……『恋に酔う』でした。

入学して間もなく、部活動の新入部員募集の日がありました。
講堂に集められた新入生の前で、壇上に立った先輩が部の宣伝をします。

わたしにとって運動部は問題外でしたけど、
文化系の部活ならなんとかできるかもしれない、と思いました。

一通りの紹介が済むと、新入生は解散して、
その日いっぱい好きな部活の実態を見学することができます。

わたしはまず、図書室へ足を運びました。
図書室を活動の本拠としているのは文芸部です。
文芸部では部員の詩や小説を会誌に載せているとのことでした。

図書室に入ると、テーブルの上に会誌のバックナンバーが並べてありました。
部活の先輩らしき上級生が数人、そばに佇んでいます。
男子も女子もおしなべて眼鏡をかけていました。

「キミ、入部希望?」

わたしが会誌の表紙を眺めていると、男子の先輩が声を掛けてきました。
態度からしてどうやらこの人が文芸部長のようです。

「まだ、決めていません。少し読んでみてよろしいでしょうか」

「もちろんもちろん。これが最新号ね」

勢い込んで身を寄せてくるので、わたしはずりずりと後ずさりしました。
立ったまま最新号を手に取って、巻頭の短編小説にざっと目を通します。
……最後まで読んでも、話がよくわかりません。

最初に戻って、今度はじっくり時間を掛けて読み直します。
高校生の恋愛物……のようです。
考え込んでいると、また声を掛けられました。

「どうかな?」

どうやら感想を求められているらしい、と理解できました。

「あの……この小説は、連載の途中なんですか?」

「え? いや、違うけど。読み切りだよ?」


かわいそう##でもがんばって!
2017-02-14 22:51:36 (7年前) No.1
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