28:
「すみません」
わたしは機械的に頭を下げ、それっきり黙り込みました。
先生は心配そうな顔で、言いました。
「何か、悩み事があるんじゃないの?
先生に相談してみない?」
わたしはちらりと先生の顔に、目を遣りました。
先生に話しても、お兄ちゃんが帰って来るなんて、あり得ません。
わたしはまた遠くを見て、沈黙を守りました。
先生はため息を一つ吐き、こう告げました。
「黙っていたんじゃ、どうしようもないでしょ。
このままだとまた、
お父さんやお母さんに来ていただかないといけなくなるけど?」
脳裏に、以前両親が呼び出された時の事が蘇りました。
「駄目ッ!」
自分でもびっくりするほどの大声でした。
わたしはいつの間にか、立ち上がっていました。
「お父さんもお母さんも関係ない!
どうして先生は余計な事ばっかりするの!」
大人と話す時、いつも使う敬語を、わたしは忘れていました。
息が荒くなって、胸が大きく波打ちました。
「お兄ちゃんが殴られたのも、先生のせい!
あんな事が無かったら、
お兄ちゃんはまだ家に居たかもしれないのに!」
無茶な八つ当たりだと、自分で分かっていても、止まりませんでした。
言いながら、涙が溢れて来ました。
慣れない大声を出して、喉がひりひりしました。
いつも大人しい、わたしの突然の爆発に、先生は驚いて口を開けていました。
やがて先生は、目を細め、そっとわたしの肩に手を置きました。
「わかった。
お父さんやお母さんは呼ばない。
約束する。
だから、座りなさい。
……お兄ちゃんが、居なくなったの?」
わたしは、こくこくと頷きました。
そして切れ切れに、お兄ちゃんが遠くに遣られた事を、語りました。
「お兄ちゃんが遠くに行ってしまったから、
勉強もなにも手に着かない、ということね?」
先生はしばらく思案してから、続けました。
「お兄ちゃんは、遠くに行って、
友達とも別れて、一人で頑張ってるのね?」
わたしは頷きました。お兄ちゃんが、頑張らないはずはありません。
「もし、お兄ちゃんが突然帰って来たら、どうする?
あなたが、暗い顔して、いつもぼーっとしてるの見たら、
お兄ちゃんはどう思うかな?
恥ずかしく、ない?」
そう言われて、わたしは愕然としました。
お腹がすうっと冷たくなりました。
わたしが何もしないで、人形のように、ただ日々を浪費していた事を、
お兄ちゃんに知られたら……。
恥ずかしさで、胸が灼けるようでした。
わたしはやっとの事で、言葉を絞り出しました。
「恥ずかしい……です」
「そんなら、頑張らなくっちゃ。
あなたは勉強は問題ないし、
もっと積極的に友達を作るようにすれば、
きっと素敵になって、
お兄ちゃんもびっくりするよ?」
わたしは再び立ち上がり、深々とお辞儀しました。
「先生……ありがとうございました。
それから、さっきは怒鳴ったりして、ごめんなさい。
わたし……頑張ります」
先生はわたしの肩をぽんぽんと叩き、言いました。
「いいっていいって。
悩み事があったら、いつでもいらっしゃい。
もう帰っていいよ」
帰り道、歩きながらずっと、わたしは考え続けました。
自分を変えなければいけない、と思いました。
お兄ちゃんが、恥ずかしいと思わないような妹にならなければ、
お兄ちゃんに顔を向ける事などできません。
お兄ちゃんが居なくなって、以前、大人になりたいと願った決心とは、
比べ物にならないほど、熱い力が体中に漲りました。
お兄ちゃんが最後の日に、わたしに残した言葉を思い出しました。
一人で頑張ること。良い友達を作ること。
胸の穴は、まだ塞がっていませんでした。
でも今、わたしには、はっきりした目的が出来ました。