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喫茶店のマスターがおしぼりとお冷やを持ってきました。

「いらっしゃいませ」

「あの、あれは……本物ですか?」

「本物ですよ。お金を入れればちゃんと動きます」

骨董品にも見えるジュークボックスはマスターの趣味なのでしょう、
返事がいかにも得意げでした。
注文を済ませてから、ジュークボックスを見に行きました。

ガラスに覆われたケースの中を覗くと、黒い円盤がぎっしり並んでいます。
お兄ちゃんが百円玉を入れました。するするとアームが動いて、
1枚のレコード盤を手品のようにプレーヤーにセットしました。

「すごいね……」

お兄ちゃんは黙って頷き、流れ出るリズムに耳を傾けていました。
店の奥には古そうなアップライトピアノも見えます。
マスターはきっとジャズマニアなのでしょう。

流行とは縁遠い落ち着いたインテリアと音楽。
この喫茶店では腰を落ち着けてパフェを食べられそうです。

わたしの頼んだチョコレートパフェが運ばれてきました。
お兄ちゃんの注文は焼き肉ランチとコーヒーでした。

「○○、それっぽっちで足りるのか?」

「うん。ご飯を食べたらパフェが入らない」

「う〜ん」

わたしの3倍以上軽く食べられるお兄ちゃんには、
ますます細くなっていたわたしの食欲が信じられないようでした。

「おいしいものを少しだけ食べた方がいい。
 その方が経済的でしょ?」

「それはそうだけどな……○○、言い方がオバサンくさい」

お兄ちゃんがくっくっと笑いました。

「む〜」

「いでっ」

マスターに見えないように、テーブルの下でお兄ちゃんのすねを蹴りました。

「……また、ここに来たい」

食後のコーヒーを飲みながら、お兄ちゃんがしみじみと答えました。

「ああ、いい雰囲気だな。また来よう。
 ところで、今からどうする? 今日は時間あるのか?」

「! ……先生に報告するの、忘れてた」

担任に合否を報告しなくてはいけないのを、すっかり忘れていました。

「あ、そっか。そりゃそうだな。俺もこの際挨拶に行くよ。
 もし怒られそうだったら、俺からも謝ろう」

「そんな……忘れてたのはわたしだし……」

「こうやって一緒にノンビリしてるんだから共犯さ。
 死なばもろとも…………ってのは不謹慎か

ギロリと睨むと、お兄ちゃんの声が小さくなりました。

喫茶店を出て、バスで中学校に向かいました。
職員室に入ると、報告に来たのはわたしが最後のようでした。

「すみません。遅くなりました」

お兄ちゃんと並んで担任に頭を下げました。
担任は怒っているどころか、むしろ上機嫌でした。

「聞いてるよ。合格おめでとう。予想通りだったけどね」

「予想……?」

「楽勝で受かると思ってた」

「ありがとうございます」

「あなたの場合、わたしはなーんにも仕事してないからね、
 手間がかからなくて楽ではあったけど、張り合いがないかもね。
 ま、なんにしても受かってよかった」

先生は少しばかり複雑な心境のようでした。

UとVの進路は、もう決まっていました。
Uは田舎の高校へ、Vはヨーロッパへ……。
卒業式の後すぐに、二人とも旅立つ予定でした。

卒業式の日には、UとVのご両親の他に、Vのお爺ちゃんとYさん、
それにお兄ちゃんも保護者として出席しました。

名前を呼ばれて卒業証書を貰いに壇上に上がるとき、
リハーサルを欠席していたわたしはお辞儀を忘れました。
……それぐらいは、ごくささいな失敗です。

Yさんは張り切ってカメラを構えていました。
お兄ちゃんは慈しむような笑顔で、ずっとわたしを見ていました。

卒業。
校歌を合唱しながら。
4月から始まる未知の高校生活よりも、
彩り豊かだった中学校生活の喪失を、強く意識しました。

3年間、本当にいろんな事がありました。
楽しかった時もあります。身を切られるようにつらかった出来事も。
周りでは、女子の多くが泣いていました。

目の奥が熱くなってきても、涙を流しはしませんでした。
UやVと過ごした日々を、きっと憶えていよう、と決めました。
お兄ちゃんのことも、わたしは忘れない。

丸めた卒業証書を掲げて、保護者席のお兄ちゃんを見ました。
お兄ちゃんはじっとわたしの目を見て、頷きました。
こうして、わたしの中学校生活は終わりました。


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