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「前髪、少し伸びたな。目に入りそうだ」
「うん、帰ったら、美容院に行く」
お兄ちゃんは並べてある中から、いぶし銀のシンプルな髪留めを手に取り、
売り子のお兄さんに声を掛けました。
「これ、下さい」
お金を払って、お兄ちゃんは髪留めをポケットに入れました。
「お茶でも飲んでくか?」
「うん……」
誰のために、お兄ちゃんは髪留めを買ったのだろう、と気になりました。
わたしたちは、アーケードの下の、古い喫茶店に入りました。
扉を開けるとき、からんころん、と音が鳴りました。
席に着くと、お兄ちゃんが立ったまま言いました。
「ちょっと詰めてくれ」
わたしは奥の席にお尻をずらしました。
お兄ちゃんはいつも向かいの席に座るのに、どうしたんだろう、と思いました。
ウエイトレスのお姉さんが、注文を取りに来ました。
わたしはレモンスカッシュ、お兄ちゃんはアイスコーヒーとホットサンドの
セットを注文しました。
お兄ちゃんはおしぼりで手を拭いて、呟きました。
「○○、顔を横に向けて」
「……?」
わたしは、黙ってその通りにしました。
視界の隅で、お兄ちゃんがポケットから、髪留めを取り出すのが見えました。
わたしがじっとしていると、お兄ちゃんがわたしの左耳の上に、
髪留めをはめました。
わたしが向き直ると、お兄ちゃんは言いました。
「ん。やっぱり俺はセンス良いな。
似合うぞ」
「お兄ちゃん……これ、いいの?」
「ん? 当たり前だろ。
何のために買ったと思ってるんだ?」
この時のわたしは、嬉しさを感じるより先にぽかんとしていました。
「どした?」
「……あ、ありがとう。お兄ちゃん。
すごく嬉しい。大切にする」
わたしはそっと、手で髪留めに触ってみました。
「まぁ、誕生祝いもできなかったしな。
せっかく来てくれたお土産だ」
わたしは舞い上がってしまって、すっかり乗り物酔いを忘れました。
やがて、注文した飲み物とサンドイッチが運ばれてきました。
わたしは、お兄ちゃんに勧められて、サンドイッチを半分食べました。
食べながら、今度来たときには、一緒に初詣に行く約束をしました。
楽しい時間は、飛ぶように過ぎて行きました。
お兄ちゃんが時計をちらりと見て、言いました。
「そろそろ時間だな」
わたしは黙って立ち上がりました。
空港行きのバスの中では、お兄ちゃんも押し黙っていました。
空港のロビーで、お兄ちゃんと別れました。
お兄ちゃんはわたしの姿が見えなくなるまで、手を振っていました。
飛行機の座席に背中を預けて、髪留めに手をやりながら、
わたしは目をつぶりました。夏は、終わったのだと思いました。
つうっと、涙が頬を流れました。
家に着いた時分には、もう暗くなっていました。
灯りの点いていない玄関の鍵を開け、中に入ると、無人の廃墟のように
思えました。
ああ、お兄ちゃんはこの家には居ないんだ、と思い、
相変わらず胸に大きな穴が空いていることを、久しぶりに実感しました。
新学期が始まりました。
昨日までの1ヶ月が、夢の中の遠い出来事のように思えました。
わたしは虚脱して、また機械的に一日一日を過ごしました。
それでも、朝起きたときや、学校から帰ってきたときは、まず最初に
郵便受けを確認しました。
まだ届いているはずがないと思いながらも、
どうでもいいダイレクトメールしか入っていない郵便受けに落胆しました。
次の日曜日、お昼前に郵便受けを見に行ったわたしは、
中に白い封筒が入っているのを見つけました。
お兄ちゃんからの手紙でした。