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駅からバスに乗って、海岸通りに行きました。
バス停で降りる頃には、夕闇が迫ってきていました。
岸壁沿いに、ずっと向こうまで緑とベンチの列が続いていました。
ゆっくりと行き交う人々は、みんな男女のペアでした。
見渡す限り、ベンチは残らず人で埋まっています。
お兄ちゃんと肩を並べて歩きながら、ついベンチの人影に目が行きました。
ほとんどの男女が、互いに肩や腰に腕を回していました。
中には、堂々とキスを交わしている二人も居ました。
海風からわたしを守るように、お兄ちゃんがわたしの肩を抱きました。
「あっちのほうが空いてるはずだ。もうちょっと歩こう」
「……お兄ちゃん、前にここに来たこと、ある?」
「ん……ああ。1年半ぐらい経つけど、変わってないみたいだ」
きっと、Cさんと一緒だったんだろう、と思いました。
お兄ちゃんとCさんが、ベンチに座ってキスしている光景を、想像しました。
わたしはお兄ちゃんの腰にきゅっと体を押しつけて、尋ねました。
「ここで、Cさんと、キスした?」
口にしてしまってから、また怒られる、と思って身を硬くしました。
でも、お兄ちゃんの返事は、どこか遠い声でした。
「ああ……そんなことも、あったな」
「ごめんなさい」
「謝ることない、さ。昔の話だ」
「お兄ちゃん、淋しい?」
「まぁ……ちょっとはな」
お兄ちゃんは、くっくっと笑いました。
「心配すんな。俺は、大丈夫だから」
「わたしは、ここに居るよ」
「ん、ありがと。お前は、優しいなぁ」
「そんなこと、無い。わたし、何にも出来ない」
「いや、お前は自分で気が付いてないだけだ。
兄ちゃんの言葉を、信用しろ」
「うん」
やっと空いたベンチが見つかって、二人で腰を下ろしました。
お兄ちゃんは、足元の小さなコンクリートの欠片を拾って、海に投げました。
欠片は、音もなく波間に吸い込まれていきました。
黒々としたさざ波が、潮の香りを運んできました。
「海に来るのも、久しぶりだな」
「うん……」
5年生の夏休みの、最後の海水浴から、1年半以上経っていました。
「ちょっと見せてみろ」
お兄ちゃんが、わたしの右腕の袖をまくり上げました。
「もう、ほとんどわからなくなったな」
クラゲに刺された跡は、水銀灯の光では、微かにしか見えませんでした。
「病気が治ったら、また泳ぎに行こう。泳ぎ方、教えてやる」
「うん」
わたしは中学2年になったら、体育ができるようになるはずでした。
「寒くなってきたな」
お兄ちゃんは、薄いジャンパーを脱いで、わたしの肩に掛けました。
「お兄ちゃんは、寒くない?」
「ふふん。鍛えてるからな」
お兄ちゃんは、にやっと笑いました。
「ところで、検査の結果は調子良いのか?」
「うん。順調。最近は月に1回、病院に通ってる。
O先生が、お兄ちゃんに会いたがってた」
「そうか。Qさんは元気か?」
「ふぅん。Qさんのこと、覚えてたんだ。美人だもんね」
「イヤな言い方するなよ……あの人にはお前が世話になったからさ」
「Qさんは、実習が終わって余所に行っちゃった」
「そっか……また、いつか会えるといいな」
「うん」
「そろそろ、帰るか?」
「え……うん……」
「最後に、あれに乗って行こう」
お兄ちゃんの指さした向こうに、ライトアップされた観覧車が見えました。