15:
キス以上の事は、おぼろげにしか知りませんでしたし、
想像したくもありませんでした。
「いい加減にしろっ!」
お兄ちゃんが食卓を、バン、と乱暴に叩いて立ち上がりました。
そしてそのまま背を向け、自分の部屋に帰ってしまいました。
お兄ちゃんを本気で怒らせてしまった、嫌われてしまった、
と思って、わたしは目の前が真っ暗になりました。
がくがく震える足を運んで、お兄ちゃんの部屋の前に行きました。
部屋のドアに取り縋って、何度も何度も叩きながら、謝りました。
「お兄ちゃん、ごめんなさい。
お兄ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい……」
そう涙声で繰り返していると、ドアが開きました。
お兄ちゃんが顔を出して、「入れよ」と言いました。
お兄ちゃんはわたしを、ベッドに連れていって座らせ、
ぐちゃぐちゃになった顔をタオルで拭いてくれました。
そしてわたしの隣に座り、わたしの顔を膝に乗せ、
頭を撫でながら話し始めました。
「○○、お兄ちゃんもう怒ってないから泣くなよ。
でも、あんな事、ずけずけ聞くモンじゃないぞ。
噂好きのおばさんみたいだ」
わたしはお兄ちゃんの膝に顔を埋めたまま、うん、と頷きました。
「淋しかったか?」
わたしはまた、頷きました。
この時は、何でもお兄ちゃんに言えるような、素直な気持ちでした。
「まだ誰にも言ってないけどな。
お前にだけ全部話すよ。
お父さんやお母さんには絶対内緒だぞ?」
わたしは大きく頷きました。
お兄ちゃんとの大切な秘密を、両親に明かすなんて考えられません。
「Cはな、元々同級生だったけど、
海水浴まではあんまり話した事がなかったな。
あの海水浴はな、Aが最初に言い出したんだ。
AはBの事が前から好きでな」
お兄ちゃんは、くっくっと笑いました。
「でも、二人だけで海に行こうってのはあんまりロコツだろ?
ん? よく分からんか。
それで、AとBが友達を一人ずつ連れて来る事になったんだ。
俺は初めどうしようかと思ったけどな。
お前が一度も海に行った事ないの思い出してな。
お前には、俺以外の人とも喋る事を覚えさせたかったし」
お兄ちゃんの優しい声が、高い所から降ってくるようでした。
「海水浴の後、Cがクラゲの怪我のこと心配してな。
色々とお前のこと聞きに来たんだ。
澄ましてるように見えたのに、話してみると思ったより話が合ってな。
向こうから付き合わないかって言ってきて、OKしたんだ」
わたしの頭が、少し乱暴に掻き混ぜられ、
お兄ちゃんの少しおどけた声がしました。
「こう見えてもな、お兄ちゃん結構モテるんだぞ!」
その時まで深く考えていませんでしたが、
こんなに格好良くて優しいお兄ちゃんなら、きっとモテるに違いない、
と思い、小さく頷きました。
たぶんこの時、お兄ちゃんは照れていたのでしょう。
お兄ちゃんの声が、再び低くなりました。
「でもな、今まで女の子と付き合った事なかったんだ。
部活が忙しかったしな」
部活だけでなく、わたしのために食事を用意するのにも忙しかったはずです。
「んー。本気で好きなのかどうか、まだよく分からん。
でもな、アイツあれで意外と甘えたがりでな。
家の中が複雑なんだそうだ。
話聞いて相談に乗ってる内に、放っておけなくなった」
お兄ちゃんの手が、背中を撫でてくれていました。
「お前もな。
あんまり我慢ばっかりしてないで、もっと甘えていいんだぞ。
欲しい物は欲しいって口に出さなきゃ。
お前が淋しそうな目をしてじーっとしてると心配なんだ」
わたしは物欲が薄い子供だったので、欲しい物などありませんでした。
欲しいと言わなくても、買い与えられた物で満足していました。
欲しいと口に出しても、決して手に入れられなくなった、
たった一つの「もの」を別にすれば。
お兄ちゃんは最後に、ぽんぽん、とわたしの頭を叩いて、
「もういいか?」と言いました。
その時なぜかわたしには、お兄ちゃんがまだ何か隠している、と分かってしまいました。
でもそれは、きっと今の幼いわたしには言えない事なんだと、同時に分かりました。
だからわたしは、起きあがって「お兄ちゃんありがとう、ごめんなさい」と言い、
お兄ちゃんの部屋を出ました。
涙が溢れそうになっている、わたしの顔をお兄ちゃんに見られたくなかったからです。
昨夜あれだけ泣いて、涙は枯れたかと思ったのに、
後から後から涙が湧いてきました。
でもそれは、悲しい涙ではなく、心を洗い流すような、どこかあたたかい涙でした。