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背中を拭き終わって、お兄ちゃんが言いました。

「さっぱりしたか?」

「……うん……」

わたしは、パジャマを着て横になりました。
お兄ちゃんが毛布を掛けてくれました。

「眠いのか?」

「……うん……」

わたしは目をつぶりました。全身をどっどっ、と血が巡りました。
しばらく、沈黙の時が続きました。

がちゃ、と音がしました。
目を開けて顔を向けると、担任の先生が近寄ってくるのが見えました。

「あら、××さん、寝てた?
 起こしちゃったかな?」

「いいえ」

「それなら良かった。
 今日はちょっと、届け物を持ってきただけだから」

椅子から立ち上がっていたお兄ちゃんに、先生が声を掛けました。

「あなたが、噂のお兄ちゃん?
 電話ではごめんなさい」

頭を下げた先生に、お兄ちゃんが答えました。

「いいえ、どういたしまして。
 こちらこそ、○○がお世話になりました。
 ありがとうございます」

「少し、あなたと話してみたいんだけど、いい?」

「あ、はい、かまいません。
 エレベーター横の談話室に行きましょうか?」

「そうね。ちょっと先に行っててくれる?」

「はい」

お兄ちゃんが出ていくと、先生は座ってバッグから袋を取り出しました。

「お見舞いの品、というより約束の品ね。
 運動会の写真、2枚ずつ焼いてきたわ」

紙袋の中には、運動会でのわたしを撮った写真が入っていました。
手作りの旗を振っている写真、ポンポンを持って踊っている写真、
走っている写真、そして、ゴールに飛び込んだ瞬間の写真……。
走りきった後のわたしは、苦しげに歪んだひどい顔をしていました。

「先生……ありがとうございました。
 きっと、宝物になると思います」

少なくとも数年のあいだ、もう走ることはできないだろう、と思いました。

「元気そうでよかった。
 忙しくて、なかなか来れなくてごめんね。
 また、来るわ」

そう言って、先生は病室を出て行きました。
わたしは、汗で冷たくなったショーツを穿き替え、少し眠ることにしました。

目が覚めると、お兄ちゃんが帰ってきていました。

「起きたか。
 お前が疲れるといけないから、そろそろ帰るよ」

「そう……。もう、来れない?」

「あ、帰るのは田舎にじゃない。
 こっちには、明後日の朝までいるよ。
 明日もまた来る」

「ホント? 良かった……。
 でも、家でお父さんと喧嘩、してない?」

お兄ちゃんと父親が、睨み合いになるんじゃないかと、心配になりました。

「ははは。
 親父もお袋も、俺がこっちに居ることを知らないさ。
 言ってないからな」

「え? じゃあ、夜はどうしてるの?」

「Aん家に泊まってる。
 ま、泊めてくれる友達なら、いくらでも居るしな」

「……Cさんには、会わないの?」

「ん……ああ、会ってもお互いつらくなるだけだ」

お兄ちゃんは話を打ち切るように、ひょいと片手を挙げて出て行きました。
お兄ちゃんが田舎で女の子からの告白を断ったというのは、
まだCさんのことが好きだからかもしれない、と思いました。

次の日の朝、Qさんが笑顔で言いました。

「○○ちゃん、尿検査の結果が急に良くなってる。
 この調子なら、すぐにお米のご飯が食べられるようになるわ」

「ホントですか?」

「噂のお兄ちゃんのおかげかな〜?」

Qさんはにやにやしました。

「そんなこと!……わかりません」

わたしはうつむきました。

「お兄ちゃんがずっと来てくれると、いいのにね」

「……はい」

お兄ちゃんが来るのは、今日が最後です。
運動会の思い出を、お兄ちゃんに話そう、と思いました。


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