71:
背中を拭き終わって、お兄ちゃんが言いました。
「さっぱりしたか?」
「……うん……」
わたしは、パジャマを着て横になりました。
お兄ちゃんが毛布を掛けてくれました。
「眠いのか?」
「……うん……」
わたしは目をつぶりました。全身をどっどっ、と血が巡りました。
しばらく、沈黙の時が続きました。
がちゃ、と音がしました。
目を開けて顔を向けると、担任の先生が近寄ってくるのが見えました。
「あら、××さん、寝てた?
起こしちゃったかな?」
「いいえ」
「それなら良かった。
今日はちょっと、届け物を持ってきただけだから」
椅子から立ち上がっていたお兄ちゃんに、先生が声を掛けました。
「あなたが、噂のお兄ちゃん?
電話ではごめんなさい」
頭を下げた先生に、お兄ちゃんが答えました。
「いいえ、どういたしまして。
こちらこそ、○○がお世話になりました。
ありがとうございます」
「少し、あなたと話してみたいんだけど、いい?」
「あ、はい、かまいません。
エレベーター横の談話室に行きましょうか?」
「そうね。ちょっと先に行っててくれる?」
「はい」
お兄ちゃんが出ていくと、先生は座ってバッグから袋を取り出しました。
「お見舞いの品、というより約束の品ね。
運動会の写真、2枚ずつ焼いてきたわ」
紙袋の中には、運動会でのわたしを撮った写真が入っていました。
手作りの旗を振っている写真、ポンポンを持って踊っている写真、
走っている写真、そして、ゴールに飛び込んだ瞬間の写真……。
走りきった後のわたしは、苦しげに歪んだひどい顔をしていました。
「先生……ありがとうございました。
きっと、宝物になると思います」
少なくとも数年のあいだ、もう走ることはできないだろう、と思いました。
「元気そうでよかった。
忙しくて、なかなか来れなくてごめんね。
また、来るわ」
そう言って、先生は病室を出て行きました。
わたしは、汗で冷たくなったショーツを穿き替え、少し眠ることにしました。
目が覚めると、お兄ちゃんが帰ってきていました。
「起きたか。
お前が疲れるといけないから、そろそろ帰るよ」
「そう……。もう、来れない?」
「あ、帰るのは田舎にじゃない。
こっちには、明後日の朝までいるよ。
明日もまた来る」
「ホント? 良かった……。
でも、家でお父さんと喧嘩、してない?」
お兄ちゃんと父親が、睨み合いになるんじゃないかと、心配になりました。
「ははは。
親父もお袋も、俺がこっちに居ることを知らないさ。
言ってないからな」
「え? じゃあ、夜はどうしてるの?」
「Aん家に泊まってる。
ま、泊めてくれる友達なら、いくらでも居るしな」
「……Cさんには、会わないの?」
「ん……ああ、会ってもお互いつらくなるだけだ」
お兄ちゃんは話を打ち切るように、ひょいと片手を挙げて出て行きました。
お兄ちゃんが田舎で女の子からの告白を断ったというのは、
まだCさんのことが好きだからかもしれない、と思いました。
次の日の朝、Qさんが笑顔で言いました。
「○○ちゃん、尿検査の結果が急に良くなってる。
この調子なら、すぐにお米のご飯が食べられるようになるわ」
「ホントですか?」
「噂のお兄ちゃんのおかげかな〜?」
Qさんはにやにやしました。
「そんなこと!……わかりません」
わたしはうつむきました。
「お兄ちゃんがずっと来てくれると、いいのにね」
「……はい」
お兄ちゃんが来るのは、今日が最後です。
運動会の思い出を、お兄ちゃんに話そう、と思いました。