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「う……キス……ぐらいは良いかな?」

「そやけど、男がキスだけで我慢できるモンやろか?」

Uが渋い顔で言葉を挟みました。

「じゃあ……キス以上は婚約してから……ってことにしたら?」

「婚約ぅ? 中学生と婚約するかぁ?」

「できないでしょ? 何年か付き合って、
 それでも真剣な気持ちだったら、婚約してもおかしくないけど」

「う〜〜〜ん、それもそやなぁ」

Uと顔を見合わせると、なんだか娘を心配している父親と母親のようで、
奇妙な感じでした。

Vを見ると、何を考えているのか、頬に手を当ててうっとりしています。

「婚約……」

わたしは、余計なことを言ってしまったかもしれない、と思いました。
結局Uは夏休みの宿題に手を付けることなく、
夕方までVにXさんのことを根ほり葉ほり尋ねました。

Vのお母さんが、夕食を食べていくように、と勧めてくれましたが、
わたしは「兄が帰ってきますから」と断りました。

Uと2人でVのお宅を辞去し、歩きながら話をしました。

「アンタの兄ちゃん、今日は遅くなるんやなかったんか?」

「もしかしたら、早く帰ってくるかもしれないから」

「そうか……まぁあんまり気にしんとき。
 アンタが暗かったら兄ちゃんにも伝染するで」

「うん……」

「そやけど、Vのことが心配やな……」

「Uはやっぱり反対?」

「反対ちゅうことはないけどな……Vが遊ばれてるんやなかったら
 エエんやけど」

「そうね」

家に帰ると、やっぱりお兄ちゃんはまだ帰ってきていませんでした。
わたしは晩ご飯の準備をして、お兄ちゃんの帰りを待ちました。

本を読んでいても、こんな時は内容が頭に入ってきません。
わたしは1人で、遅い晩ご飯を食べました。

その日、わたしがベッドに入っても、お兄ちゃんは帰ってきませんでした。
横たわるわたしの頭の中では、お兄ちゃんに早く帰って来てほしい思いと、
お兄ちゃんの顔を見るのが恐いような気持ちが、入り交じっていました。

真夜中に尿意で目が覚めて、トイレに行く途中、玄関に寄って見ても、
お兄ちゃんの靴は見当たりません。

便器に腰を下ろして、ざわつく胸を抱き、もう何度目だかわからない
ため息をついていると、玄関で大きな物音がしました。

わたしはあわてて用を足し終え、玄関に急ぎました。
常夜灯の下で、お兄ちゃんが玄関口に倒れているように見えて、
一瞬心臓が飛び跳ねました。

お兄ちゃんは横向きになって目を閉じ、かすかに身じろぎしています。
顔を近づけると、お酒のくさい匂いがしました。

わたしはお兄ちゃんの耳許で囁きました。

「お兄ちゃん」

「ん……」

「こんな所で寝たらダメ」

「んん……わかった」

はっきりした声でしたが、お兄ちゃんは寝言もはっきりと喋るので、
起きているのか寝ているのか区別が付きません。

しばらく待っても、お兄ちゃんは起き上がろうとしません。
わたしはまた、囁くように声をかけました。

「お兄ちゃん、ベッドで寝ないと風邪引くよ」

「ん……わかった、枕取ってくれ」

どうやらお兄ちゃんは寝惚けているらしい、とわかりました。
肩を揺すってみても、気持ちよさそうに目を細めるだけです。

わたしはお兄ちゃんの肩の下に手を差し込んで、体を起こそうとしました。
ぐにゃぐにゃになったお兄ちゃんは重くて、わたしの力では足りません。

わたしはあきらめてお兄ちゃんの部屋に行き、枕と毛布を取ってきました。
お兄ちゃんの頭を持ち上げて枕を差し込み、体に薄い毛布を掛けました。

立ち去りにくくて、その場でしばらく、お兄ちゃんの顔を見下ろしました。
鼻の下と顎のまわりに、うっすらと影のように髭が生えかけていました。

しゃがんで、人差し指の背で、そうっと顎の髭を撫でました。
まばらな短い髭は、ざらざらした感触でした。

少し口を開けて眠る寝顔は子供のようにあどけないのに、
少しだけ伸びた髭は、大人の男を感じさせました。

お兄ちゃんはすっかり大人になったら、わたしを置いて、
どこか遠くに行ってしまうんだろうか、と思いました。
夏だというのに寒気がして、背中がぶるっと震えました。

わたしは自分の部屋に行って、枕とタオルケットを抱え、
玄関に引き返しました。お兄ちゃんと向かい合うように枕を置き、
タオルケットを体に巻いて横になりました。

お兄ちゃんと身を寄せ合って寝ても、いつもの安息は訪れませんでした。
わたしはお兄ちゃんの匂いを嗅ぎながら目を閉じて、
このまま朝がやってこなければ良いのに、と思いました。


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