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どれぐらいそうしていたのか、わたしがボーッとしていると、
お兄ちゃんがどこからか、冷えた缶ジュースを持ってきました。
1本まるまるは飲みきれなかったので、半分お兄ちゃんに飲んで貰いました。

お兄ちゃんが、空を見上げて言いました。
「曇ってきたし、少し海に入ってみるか?」

わたしは頷いて、荷物から浮き輪を取り出しました。
お兄ちゃんが子供の頃、使っていたという青い浮き輪です。
息を吹き込んでみると、ほんの少し膨らみました。

膨らむスピードがあまりに遅くて痺れが切れたのか、
お兄ちゃんが浮き輪を取り上げて、空気弁に口を付けました。
わたしの時の3倍ぐらいのスピードで、見る見る膨らんでいきます。

念のために帽子を被ったまま、お兄ちゃんに手を引かれて波打ち際へ。
波に浚われていく砂が足の裏を流れて、くすぐったくなりました。
海の水は思っていたよりずっと冷たくて、火照った体を冷やしてくれました。

海面が胸ぐらいの高さに来ました。
お兄ちゃんの手を放して、バタ足してみましたが、ちっとも前に進みません。
波に揺られて上下しているだけです。

お兄ちゃんが片手で浮き輪を掴んで、沖に歩いて行きます。
ふと、海底に足が届かなくなっている事に気付いて、一瞬恐怖に身が縮みました。
でも、お兄ちゃんがすぐ傍に居たので、余分な力が抜けました。

入り江の外側には出ていませんが、浜辺の人影が小さく見えるぐらいになると、
お兄ちゃんは「ここに居ろよ」と言って、泳いで行ってしまいました。
ぷかぷか波に揺られながら見ていると、お兄ちゃんたちは競泳を始めました。

お兄ちゃんとAさん、BさんとCさんが組になって、
こっちに泳いで来ます。わたしの周りをぐるりと回って、また浜の方角へ。
わたしは目印代わりのブイの役目でした。
しぶきを上げてクロールで波を切るお兄ちゃんは、魚のようにしなやかで、
見入らずにいられませんでした。

何度か繰り返した後、お兄ちゃんが傍で止まって、声を掛けてきました。
「そろそろ戻るか?」

わたしは首を横に振って、答えました。
「もう少し、ここに居たい」

暑い浜辺より海の中の方が涼しかったのと、波に揺られるのが心地よかったからです。
お兄ちゃんは、「しばらくしたら迎えに来るから」と言って、戻って行きました。

わたしは、浮き輪に身を預け、仰向けになって足を伸ばしました。
こうしていると、なんだか大きな海に抱かれているようでした。
泳げないわたしを強引に連れてきてくれたお兄ちゃんに、心の中で感謝しました。

気が付くと、入り江の端の岩場に近い、淀んだ所に近づいていました。
目をつぶってじっとしている内に、いつの間にか、潮に流されていたようです。
流木や玩具のような物が浮いているのを、見に行く事にしました。

バタ足では前に進まないので、蛙のように平泳ぎの真似をしました。
近寄ってみると、元がなんだか分からない流木や玩具のパーツのあいだに、
海草が揺れていました。

その時です。
右の太股に感電した時のような、熱いショックが走りました。

一瞬、何が起こったのか解りませんでした。
遅れて、物凄い痛みが襲ってきました。
何がなんだか解らず、思わず手足をバタバタさせると、
右足の先にも左足にも右手にも、次々とショックが走ります。

本当の激痛に襲われると、泣く事も叫ぶ事も出来ません。
頭の中が真っ白に染まって、痛みしか考えられなくなります。
浮き輪にしがみついて、「お兄ちゃん!」と声を上げたような気もしますが、
実際には声が出ていなかったかもしれません。

痛みに握り潰されてどれぐらいの時間が経ったのか、
気が付くとお兄ちゃんが目の前に居ました。
「○○! 大丈夫か!」と声を掛けられましたが、
息をするのが精一杯で、頷くことも出来ませんでした。

お兄ちゃんに抱き上げられて浜辺まで戻ると、自分の右手が見えました。
大きな赤いミミズ腫れが幾つもありました。
足の裏も痛くて立てなかったので、浜辺に横にされました。

誰かの「クラゲだ」という声が聞こえました。

お兄ちゃんが耳元で、「○○、目をつぶってろ!」と叫びました。
わたしが目を堅くつぶって身もだえしていると、
温かい液体が手足に掛かってきました。お兄ちゃんのおしっこでした。

クラゲの毒の応急手当には、アンモニア水や食酢が使われます。
尿に含まれるアンモニアが有効なのかどうかは分かりませんが。

お兄ちゃんに手を握られて、おしっこまみれのままじっとしていると、
救急車のサイレンの音が聞こえてきました。
わたしはバスタオルにくるまれて、病院に運ばれました。

こうして、わたしが新しい現実を知り、
初めて海で遊ぶ楽しみを知った夏の日は、最悪の幕切れを迎えました。

この時のミミズ腫れと痒みが引くのには3日程、
残った痣が完全に分からなくなるまでは、結局1年以上掛かりました。


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