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お兄ちゃんは、少し寂しそうでした。
わたしは、お兄ちゃんとの思い出が、記憶に残っていない事が意外でした。
「……すり切れてぼろぼろになった絵本だった。
俺に読んでほしいって言うんだ。
いったい何度読まされたことか……。
うっかりページを飛ばすと、
すかさず指摘されるしな。
お前、中身を一言一句暗記してたじゃないか。
なんで俺が読まなくちゃいけないんだろうって、
不条理を感じたよ」
言いながら、お兄ちゃんの顔がほころんできました。
「……ごめんなさい。
ぜんぜん覚えてない……」
「はははっ。いいっていいって。
気にすんな。覚えてなくて当たり前だって」
お兄ちゃんは表紙を開いて、読み始めました。
ただ読むのではなく、登場人物の台詞に合わせて声音を変えて、
表情たっぷりに演技するのです。
最初わたしは呆気に取られましたが、
舞台俳優のようなお兄ちゃんの巧みな話術に、引き込まれていきました。
時間を忘れていると、お兄ちゃんが不意に本を閉じました。
「ふう。流石に疲れたな。
今日はここまでにしよう。
お前もあんまり集中していると疲れるだろ?」
「……え? あ、そんなこと無い。
すっごく面白かった」
わたしは、ほう、と感嘆のため息を漏らしました。
「ふふふ、そうだろそうだろ。
あんまり熱心に見つめられて、つい調子に乗っちゃったよ」
お兄ちゃんは得意そうに、にやにや笑いました。
……穏やかで満ち足りた時間は飛ぶように過ぎ、出発の前夜になりました。
明日からは、またひとりきりの毎日が始まる。
どうしてもその考えが胸をよぎって、心が重く沈みました。
夕食の後、わたしが意識を宙にさまよわせていると、
お兄ちゃんが声を掛けてきました。
「○○、もう体はよくなったか?」
わたしはハッと現実に引き戻され、とっさに返事しました。
「うん。もう歩き回っても大丈夫みたい。
明後日からは学校行かなきゃいけないし……」
「学校、嫌なのか?
いじめられたりしてないだろな?」
「……別に。
わたし目立たないし、体弱いから、無視されてるんだと思う」
「え? お前が目立たない?
ふははははは!
……それは無いと思うぞ」
「……?」
いきなり爆笑し始めたお兄ちゃんを、わたしは怪訝な目で見つめました。
お兄ちゃんは笑いを止め、ふう、とため息をつきました。
「お前はとびきり変わってるよ。
俺が保証してやる」
「変?」
「違う違う。面白いってことさ」
「……?」
自分のどこに面白みがあるのか、さっぱり分かりませんでした。
「お前が目立たないなんてあり得ないよ。
どうしてそう、自信を持てないんだろうな?
……ああ、独り言だから気にするな」
「……?」
そう言われてしまうと、それ以上問いただす事はできませんでした。
「ま……来年になればお前も中学だ。
俺も、うまく行けば高校だしな。
環境が変われば、友達が出来るかもしれない。
そうなれば、お前も変わるさ」
お兄ちゃんの予言は、翌年になるまでわたしには謎のままでした。
「それより、散歩でも行くか?」
「散歩?」
「ずっと籠もりっきりで、足がなまるといけないしな。
この辺にはけっこう景色の良い所が多いらしい。
せっかく来たんだから、見ておかないと損だろ」
お兄ちゃんとの夜の散歩は、8ヶ月ぶりでした。
「じゃあ、行く」
わたしは久しぶりに、外出着に袖を通しました。
帽子を被らずに済むので、頭が軽い感じです。
外に出て夜気を吸い込むと、草の匂いがしました。
「道が暗いから、手をつなごう」
お兄ちゃんが、わたしの左手を取りました。
広い道を少し歩いて、少し起伏のある細い道に入りました。
だんだん闇に目が慣れてきて、周りの景色が見えてきました。
聞こえるのは、風に木々の枝がざわめく音と、虫の声だけです。
人の気配の無い山道を歩いていても、恐怖は感じませんでした。
8ヶ月前の散歩の時のような、焦燥感もありません。
この道がどこまでも続いているような、そんな気がしました。
お兄ちゃんが立ち止まり、わたしも釣られて足を止めました。
茂みの中の、小さな広場でした。
「着いたぞ。上を見てみろ」
見上げると、満天の星空でした。