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イブの当日、わたしは電話機の前にケーキとジュースを並べて座り、
お兄ちゃんからの電話を待ちました。
7時少し前に、電話機がプ、と鳴りました。
わたしはすかさず、受話器を取り上げ、精一杯大きな声で言いました。
「メリークリスマス!」
「……メ、メリークリスマス……」
返ってきたのは、お兄ちゃんの声ではありませんでした。
「…………R君?」
「う、うん。どうしたの? 元気良いね」
いつお兄ちゃんから電話が掛かってくるかわからないのに、
邪魔されたようでいらいらしました。
「なに?」
「……えーと、あー、その、今日は予定ある?」
わたしは間髪を入れず答えました。
「ある」
「あ……そうなんだ。ごめん」
「それだけ?」
「う、うん。じゃあ、またね……」
ガチャリ、と受話器を下ろしました。
ちょっと気が抜けてしまいました。
時計に目をやると、7時を過ぎていました。
電話機が、プルルルルと鳴りました。
深呼吸をして、3回鳴るまで待ち、受話器を取り上げました。
「はい、××です」
「○○か? 俺だ」
間違いなく、お兄ちゃんの声でした。
「お兄ちゃん、メリークリスマス」
「メリークリスマス。ケーキは届いたか?」
「うん。目の前にある。すごく美味しそう」
「食べてみろよ。フルーツたっぷり入れた自信作だ。
日持ちするから、少しずつ食べればいい。
ラムとブランデーが入ってるけど、酔っぱらうなよ?」
「やっぱり、お兄ちゃんの手作り?」
「ああ。お菓子も焼けるようになったぞ。
お前こそ、枕カバーありがとな。さっそく使ってるよ」
わたしは、雲の上まで舞い上がったような心地でした。
電話越しに、お兄ちゃんの後ろでざわめきが聞こえました。
「誰か居るの?」
「ん、ああ。友達の家でパーティーやってる最中だ。
たまには息抜きしなくちゃな。
お前は……ひとりか?」
「うん。でも、お兄ちゃんが電話くれたから、良い」
その時、「ちょっとだけ替わりぃな」と、女の人の声がしました。
「あ、○○ちゃん? 初めまして。わたしS。お兄ちゃんのお友達ぃ」
わたしは雲のあいだから、真っ逆様に墜落しました。
口だけが、勝手に動きました。
「もしもし。わたし○○です。兄がいつもお世話になっています」
「礼儀正しいねー。お兄ちゃんがいつも自慢するわけだぁ」
Sさんはけらけら笑っていました。
向こうでは、お兄ちゃんと受話器を取り合っているようです。
「ちょっとやだぁ……とにかく、あなたのためにお兄ちゃん、
ケーキの焼き方教えてくれって家まで来るんだもん。妬けるわー」
ごりごりっと音がして、受話器がお兄ちゃんの手に戻りました。
「…………」
「あ、○○、聞いてるか?」
「うん……」
「このバカ、勝手にシャンパン飲んで酔っぱらいやがって。
いつもはこんなじゃないんだ。気にするなよ」
焦っているのか、お兄ちゃんは早口になっていました。
「うん……Sさんって、お兄ちゃんの彼女?」
「ん、あ……まあな」
「そう……。Cさんのこと、忘れられたんだね。良かった」
「…………」
沈黙が、胸に刺さりました。
「お兄ちゃん、パーティーがあるんでしょ?
わたしはもう良いから、楽しんで。
初詣行ったら、受験のお守り送るね」
「ああ、頼む。
お前も、体に気を付けろよ。またな……」
わたしは受話器を置いて、小さく切り分けたケーキを頬張りました。
甘さと苦さの入り混じった、とても深い美味しさでした。
噛んでいるうちに、涙の味が混じってきました。