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家に戻ってきてから、お兄ちゃんは部屋に引き籠もるようになりました。
学校にも心中未遂事件が知れてしまい、自主退学するしかありませんでした。
昼間からベッドに寝ているお兄ちゃんは、抜け殻のようでした。

この頃には、両親はお兄ちゃんに関わらないようになっていました。
娘だけでなく、息子も存在しなくなったかのように。

わたしはお兄ちゃんの部屋にそっと入り、ベッドの側に座りました。
お兄ちゃんは、わたしの方に顔を向けませんでした。

「○○か……」

「お兄ちゃん……gさんのお見舞いに、行かなくていいの?」

「……おじさんが、会わせてくれないんだ」

「お兄ちゃん、訊いていい?」

「……なんだ?」

「gさんって……わたしに似ていると、思わなかった?」

「…………」

お兄ちゃんが、わたしの目を見ました。
悲しいような、ためらうような、慈しむような、そんな目つきでした。

「最初は、そう思った。転校して、出逢って……。
 喫茶店に来て、ひとりで黙って本を読んでいた。
 制服を着ていなかったら、お前と間違えていたかもしれない。
 きっかけは、そんなところだ。
 でもな、中身はぜんぜん違う。
 あいつは……ずっと独りぼっちで、
 自分が独りだってことにも気づいてなかった。
 小さい時から病院と家の往復で、友達も、兄弟もいなかった」

優しげにgさんのことを語るお兄ちゃんの声を聞いて、
胸が断ち切られてしまいそうな痛みを感じながら、
わたしは自分でも意外なほど、落ち着いた声を出せました。

「お兄ちゃんは、gさんのこと、好きなのね」

「隠していてすまん……お前には、お前には、言えなかった。
 あいつのことを、放っておけなかったんだ」

gさんの保護者である伯父さん夫婦に反対されていても、
お兄ちゃんの選んだ人だったら、応援しよう、と思いました。
こんな、魂が抜け落ちたようなお兄ちゃんを見ているぐらいなら。

「このままで……ホントにいいの?
 きっとgさん、病院で心細い思いをしていると思う。
 自分が見捨てられたんじゃないか、って
 放っておいていいの? 寝ていていいの?」

焚きつけるようなわたしの台詞に戸惑ったのか、
お兄ちゃんはうかがうような視線を向けてきました。

「お前は……平気なのか?」

「……そういうこと、訊くんだ。
 お兄ちゃん、残酷だね。
 平気なわけ、ない。
 わたしはずっとずっと、お兄ちゃんを好きだった。
 gさんがお兄ちゃんと出逢うよりずっと前から。
 でも! お兄ちゃんの気持ちを、変えるわけにはいかないよ。
 わたしの気持ちだって、誰にも変えられないんだから……」

涙で、なにも見えなくなっていました。
いつものように、わたしの頭に、お兄ちゃんの手が伸びてきました。
わたしは立ちあがって、お兄ちゃんの手を振り払いました。

「優しくしないで。
 お兄ちゃんが優しくする相手は、わたしじゃない。
 カッコ悪いよ……今のお兄ちゃんは、情けない!」

わたしはお兄ちゃんの部屋を出て、自分の部屋に戻りました。
後から後から、涙が湧いて出てきて、止まりません。
お兄ちゃんは追って来ませんでした。

完璧なお兄ちゃんの偶像に、細かいヒビが入り、仮面が剥がれ落ちました。
中から姿を現したのは、苦悶する男のかおでした。

翌日から、お兄ちゃんはトレーニングを再開しました。
シャワーを浴びてタオルで頭を拭きながら、お兄ちゃんが部屋に来ました。
吹っ切れたような顔をしています。

「お兄ちゃん、元気になった?」

「ああ、ありがとう。お前のおかげだ」

「……gさんに会いに行かないの?」

「そんな怖い顔をするな。考えがある。もう少し待っててくれ」

お兄ちゃんは、以前のように、悪戯っぽく笑いました。

数日経って、お兄ちゃんが外出を誘ってきました。
わたしが連れ出されたのは、近所の喫茶店でした。
そこには、思いがけない人が待っていました。

「F兄ちゃん?」

「○○、大きゅうなったなあ!」

わたしを見て、F兄ちゃんは大げさに相好を崩しました。
驚くわたしを尻目に、お兄ちゃんが挨拶しました。

「F兄ちゃん、お世話になります」

「△△、俺を頼ってくれて嬉しかったで。兄貴は頭が固いからなぁ。
 ほな、早いとこ段取り決めよか」

F兄ちゃんとお兄ちゃんは、駆け落ち計画の相談を始めました。


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