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突然ふっ、と痛みが消えました。
のしかかっていたお兄ちゃんの重みが、離れていきました。

なにが起こったのだろう、とまごついてわたしが目を見開くと、
膝の向こうに、お兄ちゃんがうずくまっていました。

わたしはとっさに体を横にひねって、丸見えの部分を隠しました。
お兄ちゃんはわたしの横にやってきて、また腕枕をしました。

「……どうしたの? お兄ちゃん」

わたしの頭を抱き寄せながら、お兄ちゃんが囁きました。

「泣かないでくれ」

まるで痛みをこらえているような、かすれた声でした。
言われてみて初めて、自分が涙を滲ませていたことに気づきました。

「ごめんなさい……泣くつもりじゃなかったのに。
 お願い、もう一度」

お兄ちゃんは何度もため息をついてから、ぽつりと言いました。

「すまん……できない」

「どうして?」

「お前が泣いてるのを見て、心臓が止まった……。
 ……○○、聞いてくれ」

お兄ちゃんの声音に、甘さは欠片もありませんでした。
わたしは震えを抑えようと、お兄ちゃんにしがみつきました。

「俺は……お前の花嫁姿が見たい」

「え?」

「平凡な結婚をして、男の子と女の子を産んで、
 ふつうの……あたたかい家庭を、作ってほしいんだ」

語りかけるというより、遠い憧憬どうけいを夢見ているようでした。
それだけで、わたしには、わかってしまいました。
わたしのことだけでなく、それがお兄ちゃん自身の将来の夢だと。

気づかなければ良かったのに、と思いました。
いまならまだ、もう一度涙を見せれば、お兄ちゃんを思いのままにできる……
全身の細胞がそう叫びました。
目のくらむような誘惑でした。

でも、お兄ちゃんと同じ、冷たい家庭に育ったわたしには、
「ふつうのあたたかい家庭」を追い求める、
お兄ちゃんの夢をないがしろにすることはできませんでした。

たとえそれが、小さい子供を理解できないわたしには無縁のものだ、
と遠い昔にわたし自身が抹殺してしまった夢であったとしても……。

わたしはお兄ちゃんと結婚できません。
わたしはお兄ちゃんの子供を産めません。
わたしはお兄ちゃんに、ふつうのあたたかい家庭をあげられません。

心臓を握られて、冷たい水の中に引きずり込まれたようでした。
なかなか返事ができませんでした。
一語を発するのに、これほど努力が必要だったことはありません。

「わ、か、った……」

「○○?」

意外そうな声でした。

「これからは、ふつうの兄と妹になるんだね」

「……ああ」

まだ、迷っているような声でした。

「夜が明けたら、ただの妹になる。
 それまでで良いから、このままで居させて……」

「ああ」

お兄ちゃんの返事は、深いため息のようでした。
わたしはお兄ちゃんの肩に頭をもたせかけて、まぶたを閉じました。
強い汗の匂いがしました。

たとえ一夜だけでも、最後まで結ばれなくても、
今夜だけは、お兄ちゃんと夫婦になったつもりでした。
このまま朝が来なければ良いのに、と心底から思いました。

お兄ちゃんがわたしの背中に、毛布と布団をかけてくれました。
でもわたしは、疲れ切っているはずなのに、眠れません。

真夜中になって、わたしはそっとベッドを抜け出しました。
下着を身に着け、服を着て、コートを羽織り、マフラーを巻きました。
出がけにふと気が付いて、メモ用紙に走り書きを残しました。

「すぐ戻ります」と。

見慣れない夜更けの道を歩きました。
灯りの少ないほうを目指して行くと、田んぼのあぜ道になりました。
見渡す限り、人も家も、月も星も見えません。

刺すような冷たい風が吹いていました。

「うわあああああああああああ……」

わたしは歩きながら、声を限りに泣きわめきました。
慟哭どうこくは、だれの耳にも届かぬまま、果てのない闇に吸い込まれていきました。


へー
2017-04-06 03:09:24 (1年前) No.1
おーそう来たか
2017-07-23 11:05:43 (1年前) No.2
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