270:
突然ふっ、と痛みが消えました。
のしかかっていたお兄ちゃんの重みが、離れていきました。
なにが起こったのだろう、とまごついてわたしが目を見開くと、
膝の向こうに、お兄ちゃんがうずくまっていました。
わたしはとっさに体を横にひねって、丸見えの部分を隠しました。
お兄ちゃんはわたしの横にやってきて、また腕枕をしました。
「……どうしたの? お兄ちゃん」
わたしの頭を抱き寄せながら、お兄ちゃんが囁きました。
「泣かないでくれ」
まるで痛みをこらえているような、かすれた声でした。
言われてみて初めて、自分が涙を滲ませていたことに気づきました。
「ごめんなさい……泣くつもりじゃなかったのに。
お願い、もう一度」
お兄ちゃんは何度もため息をついてから、ぽつりと言いました。
「すまん……できない」
「どうして?」
「お前が泣いてるのを見て、心臓が止まった……。
……○○、聞いてくれ」
お兄ちゃんの声音に、甘さは欠片もありませんでした。
わたしは震えを抑えようと、お兄ちゃんにしがみつきました。
「俺は……お前の花嫁姿が見たい」
「え?」
「平凡な結婚をして、男の子と女の子を産んで、
ふつうの……あたたかい家庭を、作ってほしいんだ」
語りかけるというより、遠い
それだけで、わたしには、わかってしまいました。
わたしのことだけでなく、それがお兄ちゃん自身の将来の夢だと。
気づかなければ良かったのに、と思いました。
いまならまだ、もう一度涙を見せれば、お兄ちゃんを思いのままにできる……
全身の細胞がそう叫びました。
目のくらむような誘惑でした。
でも、お兄ちゃんと同じ、冷たい家庭に育ったわたしには、
「ふつうのあたたかい家庭」を追い求める、
お兄ちゃんの夢をないがしろにすることはできませんでした。
たとえそれが、小さい子供を理解できないわたしには無縁のものだ、
と遠い昔にわたし自身が抹殺してしまった夢であったとしても……。
わたしはお兄ちゃんと結婚できません。
わたしはお兄ちゃんの子供を産めません。
わたしはお兄ちゃんに、ふつうのあたたかい家庭をあげられません。
心臓を握られて、冷たい水の中に引きずり込まれたようでした。
なかなか返事ができませんでした。
一語を発するのに、これほど努力が必要だったことはありません。
「わ、か、った……」
「○○?」
意外そうな声でした。
「これからは、ふつうの兄と妹になるんだね」
「……ああ」
まだ、迷っているような声でした。
「夜が明けたら、ただの妹になる。
それまでで良いから、このままで居させて……」
「ああ」
お兄ちゃんの返事は、深いため息のようでした。
わたしはお兄ちゃんの肩に頭をもたせかけて、まぶたを閉じました。
強い汗の匂いがしました。
たとえ一夜だけでも、最後まで結ばれなくても、
今夜だけは、お兄ちゃんと夫婦になったつもりでした。
このまま朝が来なければ良いのに、と心底から思いました。
お兄ちゃんがわたしの背中に、毛布と布団をかけてくれました。
でもわたしは、疲れ切っているはずなのに、眠れません。
真夜中になって、わたしはそっとベッドを抜け出しました。
下着を身に着け、服を着て、コートを羽織り、マフラーを巻きました。
出がけにふと気が付いて、メモ用紙に走り書きを残しました。
「すぐ戻ります」と。
見慣れない夜更けの道を歩きました。
灯りの少ないほうを目指して行くと、田んぼのあぜ道になりました。
見渡す限り、人も家も、月も星も見えません。
刺すような冷たい風が吹いていました。
「うわあああああああああああ……」
わたしは歩きながら、声を限りに泣きわめきました。
へー
2017-04-06 03:09:24 (7年前)
No.1
おーそう来たか
2017-07-23 11:05:43 (7年前)
No.2