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わたしが声を上げると、すぐに個室の扉が開きました。
検査室のトイレは、鍵を掛けても外から開ける方法があったようです。

看護婦さんがわたしの手からコップをさっと取って、どこかに持って行きました。
先生がわたしの肩を抱いて、診察室に連れて行きました。

診察室では、眼鏡を掛けた、髪の長い女のお医者さんが待っていました。
お医者さんは、震えているわたしに言いました。

「××さん、わたしはO。よろしくね。
 今日からわたしがあなたの主治医よ。
 命に関わるようなことはないから、安心して」

診察も始まっていないのに、どんな病気かわかる訳がないのですが、
O先生の自信ありげな口調のおかげで、わたしは落ち着きを取り戻しました。

「具合が悪くなったのはいつからか、
 どこか痛いところはないか、教えてちょうだい」

わたしは、運動会の翌日から体中がだるいことと、右の脇腹が痛むことを
話しました。診察台の上に寝かされて、脇腹を指で押さえられると、
痛みで顔が歪みました。

「おしっこを採った時のことを教えて。
 生理はある?」

わたしが尿を採った時のことを思い出して、細かく話し、
まだ初潮を迎えていないことも話すと、O先生はうなずきました。

O先生はわたしに大きく口を開かせ、扁桃腺を見て言いました。

「扁桃腺が腫れてるわね。
 前に熱を出したことはない?」

わたしは、夏休みに高熱を出して寝込んだことを話しました。
看護婦さんが、尿検査の結果のプリントアウトを抱えて入って来ました。
O先生は、検査結果に目をやって、少し考えてから言いました。

「さっき担任の先生と話して、あなたがしっかりしているって聞いたから、
 今わかっていることを話します」

わたしが座り直して、真剣に聞く体勢になると、O先生は続けました。

「何も教えられないと、かえって不安になるでしょう?
 もっと詳しい検査をしないと、正確なところまではわからないけど、
 間違いなく、あなたは腎臓病、急性腎炎の一種です」

「きゅうせいじんえん?」

「おしっこを作るところの調子がおかしくなる病気。
 あなたぐらいの年頃の子には多いの。
 どのクラスでも、1人ぐらいは罹るぐらいありふれた病気。
 初めてなら、何年か治療すれば健康な体に戻れます。
 くよくよすると、かえって病気に障るから、
 夏休みがもう一度来たと思って、のんびり寝ているのが一番。
 あなたは、今から入院してもらいます」

急な話の展開に、わたしは付いて行けませんでした。

「今から? じゃあ、お家には帰れないんですか?」

「お家には、担任の先生から連絡してもらいます。
 あなたはベッドで横になって、早く良くなることだけ考えてればいいの」

診察はそれで終わりでした。
わたしは体操服のまま、看護婦さんに促されて診察室を出ました。
担任の先生がわたしに話し掛けてきました。

「先生、これから一回学校に戻らなくちゃいけないの。
 すぐにまた来るから、看護婦さんの言うとおりにしてね」

わたしは看護婦さんに連れられて、エレベーターに乗りました。
まだ若い看護婦さんが、優しい声で言いました。

「急な話だったから、病室が空いてないんだ。
 個室の人に頼んでベッドを入れさせてもらったから、
 何日かそこで我慢してね。ベッドから出ちゃダメよ」

もちろん、わたしに選択の余地などありませんでした。
目の前の光景に現実感が無く、風に揺れる草になったような気がしました。

わたしの病室に入ると、そこには先客がいました。
小さなベッドに、生まれて数ヶ月に見える赤ん坊が寝ていました。

わたしは汚れた体操服姿だったので、
看護婦さんがわたしに、手術着のようなシンプルな服を着せました。
もう1人、若い看護婦さんが入ってきて、注射器に3本も血を抜いて行きました。

新しい真っ白なシーツと毛布の掛かったベッドに、わたしを寝かせて、
看護婦さんが居なくなると、赤ん坊の枕元に座っていた若い女の人が、
わたしに話し掛けてきました。

「こんにちは。何年生?」

「6年生です」

「どこが悪いの?」

「よく分かりませんけど、急性腎炎だそうです。
 赤ちゃんも、病気なんですか?」

入院病棟でするには、あまりにも馬鹿げた質問でした。
それまで笑顔を絶やさなかった、女の人の表情が曇りました。

「……この子は、生まれつき心臓が悪いの」


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