37:
何かの物音で目覚めると、お兄ちゃんが枕元に立っていました。
「ごめん。起こしちゃったか」
お兄ちゃんは、黒い学生ズボンを穿いて、白い半袖シャツを着ていました。
胸ポケットに、初めて見る校章と名札が留めてありました。
わたしが朦朧とした頭で上体を起こすと、お兄ちゃんが言いました。
「いいからまだ寝てろ。
じゃ、行って来る」
わたしは、「行ってらっしゃい」と呟いて、また横になりました。
再び目が覚めたのは、もうだいぶ遅い時間でした。
部屋の隅に、送っておいた荷物が置いてありました。
わたしは肩の見える涼しい夏着に着替えて、顔を洗い、居間に行きました。
ちゃぶ台に向こうに、F兄ちゃんが、胡座をかいて座っていました。
わたしを見ると、上機嫌な顔になって、言いました。
「おお、○○か。よう眠れたか?
こっち来い、こっち来い」
わたしはF兄ちゃんの前に座って、挨拶しました。
「F兄ちゃん、おはようございます」
「うんうん。礼儀正しいのお。
ええから膝崩して楽にし」
わたしが膝を崩すと、F兄ちゃんがちゃぶ台の下から、何か箱を取り出しました。
「○○はチョコレート好きか?
全部食べてええぞ」
箱を開けると、小さな仕切りで分けられた、丸いチョコレートが入っていました。
数の多さにわたしが手を出しかねていると、さらに声が掛かりました。
「子供は遠慮せんでええ。
△△の分は別にある。
それは全部お前の分やから、食べ食べ」
一つ取って頬張ると、口の中に、例えようのない芳醇な味と香りが広がりました。
「美味しい……」
わたしは思わず目が、まん丸になりました。
こんなに美味しいチョコレートを食べるのは、初めてでした。
勧められるままに、一つ、また一つと、残らず食べ尽くしてしまいました。
お腹が一杯になり、頭がのぼせてきて、酔っぱらったようになりました。
「F兄ちゃん、ありがとう。ごちそうさまでした」
頭を下げると、ぽたり、と鼻水が落ちたような気がしました。
畳の上に、赤い染みが出来ていました。
鼻に手をやると、手の甲に血が付きました。
F兄ちゃんは慌てて、お婆ちゃんを呼びに行きました。
わたしは涼しい縁側に、バスタオルを敷いて寝かされました。
F兄ちゃんはお婆ちゃんから、がみがみ怒られていました。
わたしが口で息をしながらぼうっとしていると、お兄ちゃんが帰って来ました。
お兄ちゃんは、わたしが鼻にティッシュを詰めているのを見て、爆笑しました。
わたしはバスタオルで顔を隠して、チョコレートの甘い誘惑に負けたことの、
罰が当たったのだと思いました。
結局、お昼ご飯は何も食べられませんでした。
わたしが横になっていると、お兄ちゃんは居間ののちゃぶ台で、勉強を始めました。
お兄ちゃんは時々難しい顔をしながら、シャーペンを動かしていました。
わたしがその様子をじいっと見ていると、聞いてきました。
「○○、退屈か?」
「ううん。
……でも、一緒に勉強していい?」
「ん? 夏休みの宿題、持ってきたのか?」
「宿題は、もうぜんぶ済ませてきた」
お兄ちゃんは、怪訝そうな顔をしました。
「え? もう?
……じゃ、なにを勉強するんだ?」
「お兄ちゃんと一緒のところ」
「ん? 俺がやってるのは、高校の受験勉強だぞ?
まだぜんぜん習ってないだろ?」
「中学2年のところまでなら、分かると思う」
「なに? お前、どんな勉強の仕方してるんだ?
塾とか家庭教師とか……あの親父やお袋が、そんなもん考えるわけないか」
「……? 普通に、授業を受けて、宿題するだけ。
家では、お兄ちゃんの、教科書や参考書を読んでる」
「……それって、普通じゃないよ……」
お兄ちゃんは、情けなさそうな表情になりました。
「それじゃ、1〜2年の復習問題やってみるか」
数学の問題集から、お兄ちゃんが20問選びました。
わたしは1問間違えてしまい、がっかりしましたが、お兄ちゃんは、呆れ顔でした。
「……俺ももっと、頑張らなくっちゃな」