26:
「○○、ごめんな。
お兄ちゃん、約束守れなかった」
約束ってなんだろう、と、わたしは不思議に思いました。
お兄ちゃんは、早口で話を続けました。
「お前に危ない事するなって言われてたのにな。
友達が揉め事に巻き込まれてな。
ほっとけなかったんだ。
相手が大勢でな。
友達が木刀持って来てなかったら、やられてたかもしれない。
……はは、言い訳だな」
父親に一言も話さなかったお兄ちゃんが、わたしに向かって必死に言い訳していました。
お兄ちゃんはわたしの目の前で、膝を折って両手をベッドに突き、項垂れました。
「畜生、畜生、畜生……」
唸るようなお兄ちゃんの声に、わたしは、お兄ちゃんが壊れてしまうのではないか、
と思いました。
わたしはお兄ちゃんの首を抱え、自分の膝に引き寄せました。
お兄ちゃんはまるで力が無いかのように、されるがままになっていました。
お兄ちゃんの顔が太股に当たり、やがて、一つ、また一つと、熱い点の感触が、
パジャマの布地越しに伝わって来ました。
わたしが泣いてお兄ちゃんに慰められた、以前とは全く正反対の状況に、
わたしは何をしたらいいか、何を言ったらいいか分からず、狼狽えました。
胸の中では、お兄ちゃんと一緒に居る嬉しさと、お兄ちゃんが苦しんでいる事への
焦燥と、離ればなれになる事への不安とが、入り混じって渦巻いていました。
やがて、お兄ちゃんはがばっと立ち上がり、背中を向けました。
「ふふ、格好悪いとこ見せちゃったな。
あーあ、なにやってんだろ俺」
恥ずかしそうな、淋しそうな声でした。
「お兄ちゃんは格好良いよ!」
わたしは反射的に断言しました。
「ん、ありがと。
そう言ってくれるのはお前だけだ。
……よし、頑張らなくっちゃな。
○○、お兄ちゃん遠くへ行くけど、
きっとまた帰って来る。
それまで、一人で頑張れ。
いや、友達も作れよ。
……悪い友達は作っちゃ駄目だぞ。
お前をこの家に残して行きたくないけど、
お兄ちゃんにはどうしようもない……ごめんな」
「いい、いい。お兄ちゃんのせいじゃない」
わたしは子供でした。わたしが手が届かないほど大人だと思っていた、
お兄ちゃんもまた、大人の都合に抗う術のない、子供でした。
あの時、お兄ちゃんが父親に反抗していたら、どうなっただろうと思います。
父親は頑健で、腕も太かったのですが、お兄ちゃんなら勝っていたかもしれません。
でもなぜか、お兄ちゃんがわたしの見ている前で、暴力を振るっているのは、
一度も見た事がありません。
わたしの言葉にお兄ちゃんは頷き、「おやすみ」と言って部屋を出て行きました。
わたしは一人になり、ベッドに横になりました。
でも、そのまま寝付くことは出来ませんでした。
色々な事が、頭を去来しました。
わたしは起きあがって、部屋の中を行ったり来たりしました。
居ても立ってもいられませんでした。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、泣く事も笑う事も怒る事も出来ませんでした。
わたしは枕を抱いて、お兄ちゃんの部屋の前に立ちました。
そうっとドアを引き、中に入りました。
明かりは、お兄ちゃんがいつも寝る時に点けている、小さな赤いランプだけでした。
わたしは囁くような声で言いました。
「お兄ちゃん、起きてる?」
お兄ちゃんがごろりと、こちらを向きました。
「ん……○○、まだ、起きてたのか?」
「うん……眠れない。
お兄ちゃん、今夜だけ、一緒に寝ていい?
……お願い」
わたしが真剣にお兄ちゃんに何かをねだったのは、これが初めてだったと思います。
一瞬の沈黙の後、お兄ちゃんが答えました。
「……いいよ。おいで」
お兄ちゃんが自分の身を、ベッドの向こう側ぎりぎりに寄せました。
わたしはベッドに這い上がりながら、言いました。
「そんなに端っこだと、落ちちゃうよ。
お兄ちゃんの方が大きいんだから、
もっと、こっちに来て」