229:
わたしはベッドに、そっと横たえられました。
やがて、ハッ、ハッ、と切れ切れに息が吐けるようになりました。
「だ、だいじょうぶ……」
お兄ちゃんを見上げたわたしは、一瞬驚きに痛みを忘れました。
お兄ちゃんの顔は呆然として、まるで脱け殻のようでした。
「ど、どうしたの?」
問いかけると、ハッと我に返ったように、お兄ちゃんの表情が戻りました。
「い、いや……お前が返事しないもんだから、パニクっちまった。
す、すまん。痛かったろ?」
「痛かったけど……もうだいじょうぶ」
深呼吸するとまだ胸が痛みましたけど、浅い息はできました。
お兄ちゃんはホッとしたのか、絨毯にへたり込んであぐらをかきました。
「それより……電話、なにがあったの?」
さっきの様子は、ただごとではないようでした。
「ん……あ……それは……」
お兄ちゃんは目を泳がせて、口ごもりました。
寝る前に、わたしは本当のことが知りたい、と言ったのに、
お兄ちゃんは話してくれないのか、と悲しくなりました。
わたしが目を伏せて黙り込むと、お兄ちゃんは大きなため息をついて、
口を開きました。
「あのな……田舎からの電話だったんだ……」
そこでまた途切れたので、わたしは不吉な想像をしてしまいました。
「まさか……F兄ちゃんに、なにかあったの?」
「……違う違う。F兄ちゃんはぴんぴんしてるよ。
電話をかけてきてくれたのも、F兄ちゃんだ」
「……?」
「実はな……田舎の家に、俺の元教え子が来てるんだ」
「え?」
「俺が家庭教師してた子だよ。
自分のせいで俺が家庭教師クビになったって勘違いしたらしい……。
それで親御さんと大喧嘩して、家を飛び出したんだ。
俺に謝りたい一心で、F兄ちゃんの家に押し掛けたってわけ……」
「こんな夜中に?」
「そう。こんな夜中に。
F兄ちゃんもビックリして事情を訊いたんだけど、
なんせ本人が興奮しててさっぱり訳がわからない。
俺に会いたい、の一点張りでな……。
F兄ちゃんも困り果てて、俺に電話してきたんだ」
お兄ちゃんがげっそりした顔で苦笑いしました。
「若いって凄いなぁ……
俺が実家に帰ってるだけだって納得させて、
落ち着かせるのに1時間もかかっちまったよ。
親御さんにも連絡して、今夜はF兄ちゃんのとこに泊めて、
明日F兄ちゃんが送っていくことになった」
わたしは呆れて、しばらく返事を忘れてしまいました。
「……それは……大変だったね。これから、どうするの?」
「……参った。また俺に勉強教えて欲しい、ずっと待ってる、
って言うんだもんな……」
「そうするの?」
「そういうわけにもいかないだろ。それだけで済むわけないしな。
……しかし、どうすりゃ諦めてくれるんだろうな? 参った」
内心、お兄ちゃんは喧嘩には強くても、女の子には弱いんじゃないか、
と思いました。
「お兄ちゃんが田舎に帰ったら、きっとまた押し掛けてくるね」
「う……そうだな。ハァ……。
まだ中2だからなぁ……ハシカみたいなもんで、
年上に憧れてるだけだと思うんだけどな。
距離を置いておけば、そのうち熱も冷めるはずなんだが……」
「彼女は、本気じゃない、ってこと?」
「ん……本気は本気なんだろうけど、あのぐらいの年頃だと、
まだ人を愛するってのがどういうことか、わかってないと思うんだ。
俺もまだ、よくわかってないしな……」
お兄ちゃんの目は、昔の自分を懐かしむように、遠くを見ていました。
そう言われると、わたしも今の自分の気持ちがどんなものか、
上手く説明できるわけではありません。
自然と2人とも黙り込んでしまいました。
しばらくして、つかみどころのない沈黙に耐えられなくなってきて、
わたしは口を開きました。
「……お兄ちゃん、寒くない?
答えのわからないことを、いつまで考えてても仕方ないよ。
布団に入って寝よう?」
「……そうだな」
ベッドの上で2人並んで、布団にくるまりました。
横から抱きついて足を絡めると、冷え性のわたしの足より、
お兄ちゃんの足のほうが冷えていました。
「お兄ちゃんの足、冷たいね」
「お前の足、あったかいな。冷たくないか?」
「こうしてたら、すぐにあったまるよ」
やがて、本当に体中がほかほかとあたたまってきました。
大きく息を吸うと、まだ少し、胸が痛みました。
かすかな不安を胸に抱きながら、お兄ちゃんの匂いとぬくもりに包まれて、
わたしは、夢も見ない、暗い眠りに落ちていきました。
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2019-11-09 14:06:24 (4年前)
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