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お兄ちゃんが髪留めのことをちゃんと覚えていてくれた、
たったそれだけで、熱い何かで胸が一杯になって、溢れ出しそうでした。
嬉しくてたまらないのに、なぜか胸の奥が苦しくて、
大きく呼吸しないと、肺に息が入ってきません。
赤い鼻緒の下駄を履いて外に出ると、慣れない着物の裾に足を取られて、
ちょこちょことしか歩けませんでした。
お兄ちゃんが何気なく差し出した右手を取って、バス停までの道を、
ゆっくりと歩きました。
斜めになった陽を浴びるお兄ちゃんの横顔を、じっと見上げながら。
せめて記憶の中に、焼き付けておこうと思って。
胸が痛くなるほどの、今のしあわせは、そう長くは続かない、
と確信していました。
お兄ちゃんが立ち止まって、振り向きました。
「どうした? 帯が苦しいのか?」
わたしは何も言えず、ただ首を横に振りました。
「ま、のんびり行こう。時間はまだある」
再びゆっくり歩きだすと、わたしの中で止まっていた時計が動き出しました。
張り詰めていた世界が、溶けていくように。
バスは混んでいて、掴まる場所もありませんでした。
吊革を握るお兄ちゃんの背中に、セミのように掴まりました。
駅前のロータリーで降りると、Uたち4人はすでに揃っていました。
「遅いでぇ〜」
Uの浴衣は、明るい萌葱色に花の散ったあでやかな柄でした。
赤い帯と合わせた赤いリボンのような髪飾りで、別人のように見えました。
よく見ると、うっすら化粧もしています。
「U、すっごく可愛い」
お兄ちゃんも感嘆したように、うんうんとうなずきました。
「へへぇ〜、ホンマにぃ?
○○もめっちゃ綺麗やん。極道の
「う〜ん、良いんじゃないかな」
隣に立つYさんは、紺色の渋い浴衣を着ていて、書生さんのようでした。
目を逸らして、どこかを見ています。
褒められているのかどうか微妙で、返事に困りました。
「なんや兄ぃ! ちゃんと見たり。失礼やん」
「お前なぁ……じろじろ見たら怒るくせに……」
Yさんはぶつぶつ言っています。また喧嘩が始まるかと思いましたが、
Uは今日は異常に機嫌がよく、ぺちぺちYさんの背中を叩くだけでした。
Vが、ぷうっとむくれているのが目に入りました。
こちらは、あまりにも予想通りの格好です。ため息が出るほど派手でした。
結い上げた髪に似合っているのは確かなのですが。
「V、綺麗ね」
「ホントぉー? Uったらヒドイんだよー。派手すぎるってー。
自分だって今日は派手なくせにー」
後ろではXさんが明らかに苦笑しています。
お兄ちゃんがフォローを入れました。
「Vちゃんはとっても可愛いから、もっと大人しめの着物のほうが、
引き立つんじゃないかな、ってことだと思うよ」
「えーそうですかー、やだー」
Vは赤くなって、ちっとも嫌そうではありませんでした。
わたしはこんな恥ずかしい台詞を人前で言えるお兄ちゃんに、
内心呆れました。
「○○、アンタ、帯変なんとちゃう?」
「え?」
「自分で結んだんか? わたしはお母ちゃんに教えてもろうたから、
結び直したるわ。Vも来て手伝い」
切符を買ってみんなで駅に入り、UとVと3人でトイレに行きました。
結局最初から着付けなおしてもらい、出てくると、人の波ができていました。
「めっちゃ混んできたみたいやな。みんな花火大会に行くんやろか?
アリみたいにぞろぞろ……踏みつぶしたくなってくるわ」
「わたしたちも踏まれちゃうよ?」
「それもそやな」
電車の中も混んでいて、空いた座席はありませんでした。
男性陣が盾になって、出入り口の脇にスペースを作ってくれました。
お兄ちゃんと向かい合って、すれすれに近づいていっしょに揺れていると、
なんだかダンスを踊っているようで、わたしの中の時計がまた止まりました。
揺れて何度かお兄ちゃんにぶつかると、そっと肩に腕が回されました。
目的地の駅に着いて、電車から吐き出されました。周りは人で一杯でした。
「はぐれたらアカンで」
わたしたちは、それぞれ男女でペアを作って寄り添いました。
花火が打ち上げられる川沿いの一帯は交通規制がされていて、
一方通行でしか歩けません。
「あ、屋台がある! 兄ぃ、かき氷買うてきて」
夜店が道路脇に軒を並べていました。
ぱあん、と音が降ってきました。見上げると、最初の花火が散るところでした。