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自分の耳が信じられなくて、全身を硬直させたわたしを残し、
父親は背を向けて立ち去りました。

わたしはそのまま、じっと身じろぎひとつしませんでした。
病気の娘を「廃人」呼ばわりする、人の親なんて、ありえない……
今のが夢であってくれたら……と念じても、あれは、紛れもない現実でした。

吐き気と、眩暈が襲ってきて、どっと冷や汗が噴き出してきました。
体がガクガクと震えだして、両腕で肩を抱きしめても止まりません。
久しぶりの、神経症の発作でした。
わたしは暗い部屋の天井を見つめて、1時間ほど呻吟しんぎんしていました。

わたしは父親を嫌っていました。その下劣さを。その冷酷さを。
けれど、心のどこかでその時まで信じていたのです。
父親が、娘を本当に見捨てることなんてあるはずがない、と。
態度には表れなくても、わたしを愛してくれているはずだ、と。

歯をカチカチ鳴らしながら、わたしは悟りました。
父親にとって、わたしはもう何の価値もない石ころ同然の存在だと。
息をしていても、もう死人としか見えていないのだ……と。
わたしは自分の甘さを、心の底から思い知り、ひっそりと自嘲しました。

夜遅く、わたしの様子を確かめに来たお兄ちゃんが見たものは、
冷たい汗でシーツを濡らし、目尻に涙の跡を留めたわたしでした。
お兄ちゃんは、わたしの表情に驚いたことでしょう。

「○○、どうした? なにかあったのか?」

わたしはまだ、顎をうまく動かせませんでした。

「……汗、かいたみたい……寒い」

毛布の下に手を差し入れて、じっとりと湿っているのに気づいたお兄ちゃんは、
シーツを交換し、わたしを着替えさせました。
人形のようにこわばった体を、優しくいたわるように。

抱きかかえられてお兄ちゃんに背中をさすられ、
洗濯したシーツとパジャマに包まれて、わたしは体温を取り戻しました。

「眠れるまで付いているから、安心しろ」

「…………」

お兄ちゃんに手を握られて、わたしは目蓋を閉じました。
けれど、脳裏にはずっと、父親のつぶやき声が響いていました。
暗闇の中に立っていた父親の姿、そしてあの言葉を、
わたしは一生忘れられないだろう……と意識しました。

たとえ細かい表情や口調が失われることはあっても、
陰画のようにわたしの記憶に焼き付いて、永遠に消えることはないだろう、と。

わたしを変える力を持っているのは、お兄ちゃんしかいない、
この時までわたしは、そう信じていました。それは間違いでした。
父親は、消せない刻印を、わたしに打ちました。
胸の奥を焼き尽くすような、憎悪という感情を、初めて知りました。

わたしがいつ夢を見ない眠りに落ちたのか、覚えていません。
翌日、わたしは遅く起きて、ベッドから抜け出しました。
家には誰も居ませんでした。

父親の部屋には、鍵のかかった引き出しがありました。
前に掃除をした時、スペアキーが机の裏に張り付けてあるのに気づきました。
額の裏に、数字の組み合わせの書いたメモが貼ってあるのにも。
その時は、父親の机を荒らす気は起こりませんでした。今は違います。

スペアキーを使って引き出しをそっと開けました。
一番上の引き出しに、数字の組み合わせで鍵をかけるタイプの、
手提げ金庫が入っていました。

その時の数字の組み合わせを暗記して、メモに書いてある数字に合わせました。
金庫の中には、通帳や印鑑、証書の束が入っていました。
自分の鼓動の音が大きく聴こえました。

定期預金の通帳を開いた時、もう驚きはありませんでした。
記載されていた金額は、誤って請求されたわたしの入院費の額を、
大きく上回っていました。

「やっぱり……」

予感が当たっただけなのに、その場で地の底に沈み込むような気がしました。
わたしの命には、この通帳ほどの価値もなかったということなのでしょう。
わたしは細心の注意を払って、金庫とスペアキーを元通りに仕舞いました。
自分の部屋に戻る力を振り絞るのに、意志のありったけが必要でした。

それから間もなく、わたしの病状は悪化しました。
父親の言葉がどれぐらい影響したのかは、何とも言えません。
リトマス試験紙のような簡易検査キットの色が、赤血球++++を示していました。
わたしはその事実を静かにお兄ちゃんに告げて、入院の支度をしました。
半月ぶりに内科病棟に舞い戻ることになりました。

病院に向かうバスの中、お兄ちゃんはわたしにどんな言葉をかけたらいいか、
迷っているようでした。わたしの病気を黙って見ているしかないのが、
苦しかったのかもしれません。

「お兄ちゃん」

「ん?」

顔を上げたお兄ちゃんに、わたしは微笑みかけました。

「お兄ちゃんのせいじゃない。
 わたしが無理に退院したせいだから……」

少なくとも、これっぽっちもお兄ちゃんの責任ではありませんでした。
父親とのことは、お兄ちゃんには秘密にしておくつもりでした。
真実を知ったら、お兄ちゃんが荒れ狂うだろうと思ったのです。

「うん……早く、治るといいな」

「そんな顔してたら、お兄ちゃんの方が入院するみたい」

「毎日見舞いに行くよ」

「お兄ちゃんも受験生でしょ? 無理しなくていい。
 わたしも受験生だけど、来年はもうあきらめてる」

「お前だったら、受験勉強なんてしなくても受かるんじゃないか?」

「世の中、そんなに甘くないと思う」


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