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お兄ちゃんと話しているうちに、だんだん困ったことになりました。
わたしが、おしっこをしたくなってきたのです。
自分で歩いてトイレに行ければ、なにも悩まなくて済んだのですが、
今は、自分の寝ているベッドの上で、用を足さなくてはなりません。
ベッドの下には、病院のおまると尿瓶が置いてありました。
O先生から、おしっこを我慢してはいけない、と言い渡されていました。
でも、お兄ちゃんに「おしっこするから外に出ていて」とは言えませんでした。
おしっこの入った尿瓶を見られたり、匂いに気付かれたくなかったのです。
今思うと馬鹿げた悩みですが、その時は死活問題に思えました。
わたしは我慢しているうちに、冷たい汗をかいてきました。
なんとかしてお兄ちゃんを、しばらくここから遠ざけたいと考えているうちに、
お兄ちゃんへの返事が上の空になってきました。
「ん……どうした? 気分でも悪いのか?」
お兄ちゃんが、わたしの異変に気付いてしまいました。
「……べつに……なんでもない」
「ホントか? 顔色悪いぞ。看護婦さん呼ぼうか?」
「ちょっと、疲れただけ。
それより、お兄ちゃん、お昼まだでしょ?
下の食堂で、食べてきたら?」
病院の1階には、外来向けのレストランがありました。
「あ、そうだな。ごめん。お前も休まないとな。
じゃ、1時間ぐらいしたら、帰ってくるから」
1時間もあれば、おしっこをして、尿瓶の中身を捨ててきてくれるように、
看護婦さんに頼む時間は十分にあります。
「行ってらっしゃい」
お兄ちゃんは上着を椅子の上に置いて、出ていきました。
ドアが閉まると、わたしはあわてて体を起こし、
椅子と反対側のベッドの下にある、尿瓶に手を伸ばしました。
女性用の尿瓶は、口がペリカンのように広がった形をしています。
わたしは膝立ちになって、パジャマのズボンとショーツを膝まで下げました。
尿瓶の口をあそこに当て、ホッとしましたが、我慢していたせいか、
なかなかおしっこが出てきません。
そのあいだに、ナースコールのボタンを押しました。
ナースステーションから誰か、すぐに来てくれるはずです。
やっとのことで、ちょろちょろと、黄色い液体が出てきました。
その時、がちゃり、とドアが開きました。
「ははは、財布わす……」
お兄ちゃんと、目が合いました。おしっこがぴたりと止まりました。
お兄ちゃんは口を開けたまま、人形のように静止しました。
わたしはそのままの体勢で、金縛りに遭いました。
どっくんどっくんと、心臓の音だけが響く静寂が、続きました。
緊張は、突然の大声で破られました。
「なにしてんのキミ!」
外からQさんが、お兄ちゃんの襟首を掴んで、後ろに引きずりました。
ドアが自動的に閉まって、ぱたん、という音がしました。
わたしは人形のようにぎこちなくおしっこを再開し、出し切って、
ティッシュであそこを拭き、ショーツとズボンを引き上げました。
尿瓶を床に置いて、のろのろとベッドに横になりました。
ドアが開いて、Qさんが入ってきました。
「○○ちゃん、大丈夫?」
「……おにい……ちゃんは?」
「ナースステーションで待たせてる。
お説教しといてあげるわ」
「あの……これ……洗ってきて……いただけます、か?」
「わかった。気にしない方がいいよ」
Qさんはすぐに尿瓶を洗って、また持ってきてくれました。
Qさんが居なくなると、わたしは毛布を頭から被り、丸くなりました。
お兄ちゃんに見られた……そのことが頭の中で、ぐるぐる回りました。
おしっこしているところを見られた恥ずかしさと、
痩せすぎたお尻や脚を見られたショックが、入り混じっていました。
わたしのお尻は元々薄く、硬い椅子に座ると痛くなりました。
太股のあいだには、膝を揃えても握り拳が入ってしまいます。
入院してからますます、痩せたような気がしていました。
扉の開く音が聞こえました。
「○○、ごめん。わざとじゃなかった」
お兄ちゃんの声でした。
「……お兄ちゃん……見た?」
「……ああ……見た」
「……」
「……」
「……気持ち悪く、なかった?」
「え?」
「わたし……がりがりでしょ?」
「……そんなに、気にしてたのか。
気持ち悪いなんて、思うわけないだろ。
太り過ぎよりマシさ」
「ホント?」
「ホントホント」
わたしは、はあ、と息を吐きました。
おしっこしてるのを見られたことも、もう、どうでも良いような気がしてきました。
わたしは、体を伸ばして枕に頭を乗せ、言いました。
「お兄ちゃん、もう良いから、ご飯食べてきて。
わたし、寝る」
「ん。じゃあな」
お兄ちゃんが出ていって、わたしはひとり、うとうとしました。
物音で目覚めると、お兄ちゃんが手に何かを持って、入って来るところでした。