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涙の日の後、わたしは一刻も早く大人になりたい、と願うようになりました。
お兄ちゃんを電話で笑わせているCさんより、わたしはどこを取っても子供でした。
Cさんと肩を並べて去っていくお兄ちゃんを、頭の中で無意識に想像して、
少しでもそれに追いつきたい、と思ったのかもしれません。
お兄ちゃんに付き合っている彼女が居ると知っても、
お兄ちゃんへの気持ちを無かった事にするなんて、考えられませんでした。
お兄ちゃんにとってそうではないと分かっても、
相変わらずわたしにとっては、お兄ちゃんが世界のほとんど全てでしたから。
いえむしろ、それまでわたしにとって絶対だった憧れのお兄ちゃんを、
一人の男性として好きになったのが、あの涙の日だったのかもしれません。
お兄ちゃんに彼女が居ると聞いて、失恋という心の痛みを知った事と、
お兄ちゃんの、わたしへの変わらない優しさに触れた事で、
はじめてお兄ちゃんへの恋心を、はっきりと意識するようになりました……。
でも、目の前の現実は、幼いわたしの目に、この上なく残酷に映りました。
Cさんは大人で、優雅で、健康で、胸が立派で、ユーモアのセンスもありました。
わたしは子供で、のろまで、虚弱で、胸は平らで、ユーモアのセンスが皆無でした。
誰だって暗いわたしより、Cさんの方を好きになるだろう、と思いました。
わたしに有利な点は、お兄ちゃんの妹として、同じ家に住んでいる事だけです。
わたしが妹でなかったら、お兄ちゃんもわたしには構ってくれなかったでしょう。
わたしは、妹が兄に恋をするのは異常な事だと知ってはいましたが、
それでも、わたしがお兄ちゃんの傍に、妹として生まれてきた事を、
何処にいるのか知らない神様に感謝しました。
しかし、大人になると決めても、いざ実行するとなると、具体策が浮かびません。
お兄ちゃんに「どうしたら大人になれるの?」と尋ねるわけにはいきません。
お兄ちゃんに頼るのが、子供っぽい振る舞いに思えたからです。
体の発育は時間に任せるしかないとしても、それ以外は何でも、
自分の力だけで出来るようにならないといけない、と思いました。
迷った挙げ句、まずは休みの日に一人で外出する事にしました。
わたしが一人で出歩けるようになれば、お兄ちゃんもCさんとデートする暇が出来ます。
お兄ちゃんとCさんの仲を、邪魔しようと考えませんでした。
デートに出かけるお兄ちゃんを、我が侭を言って引き留めたり、
思ってもいないCさんの悪口を言ったりしたら、
きっとお兄ちゃんに決定的に嫌われてしまう、と思って怖かったのです。
いつもの夜の食卓で、わたしはお兄ちゃんに言いました。
「今度の日曜日、わたし、一人で出かけるから」
お兄ちゃんは怪訝そうな顔をして、問い返しました。
「ん? 今度の日曜は一緒に散髪に行く日だろ。
なんか用事あるのか?」
それまでは、月に一度は必ず、お兄ちゃんと一緒に駅前に出て、
同じ床屋で髪を切って貰っていました。
「今度から、美容院に行くことにする。
クラスの子もみんな、美容院でセットして貰っているっていうし」
同級生から話を聞いたというのは、真っ赤な嘘でした。
お兄ちゃんは、複雑な顔をして言いました。
「んー、それじゃ、途中まで一緒に行くか?」
「いい。一人で行きたい。
途中で、お兄ちゃんに連れられているんだって、
クラスの子に見られたら、恥ずかしいから」
恥ずかしくなんか、ありませんでした。
同級生に会ったら、格好良いお兄ちゃんを見せびらかしたかったぐらいです。
お兄ちゃんは、なんだか淋しそうな顔で微笑みました。
「……そうか。
じゃ、最初はいくらかかるか分からないから、
余分にお金渡しとくよ」
この頃、家計は実質的にお兄ちゃんが管理していました。
わたしはこの後、夕食が終わるまで、嘘を付いて酷い事を言ってしまったような
気がして、お兄ちゃんの顔を見られませんでした。
次の日曜日。
朝、いつもお兄ちゃんを見送るわたしが、珍しくお兄ちゃんに見送られました。
「お兄ちゃんは、どこか行かないの?」
「ん、ちょっとな……約束の時間まで、まだあるから」
わたしはお兄ちゃんが、きっとCさんと会うのだろうと思いました。
わたしは内心を顔に出さないように表情を消し、小さく手を振って、
「行ってきます」
と告げました。
自転車に乗り、交通量の多い大通りを避け、細い裏通りを通って駅前の駐輪場へ。
商店街にある、はじめて入る大きな美容院の前を、何度も行ったり来たりしました。
外から見ると、中は大人の女の人が一杯で、
まともにわたしの相手をしてくれるだろうかと不安になりました。
入り口のガラス戸の前で立ち竦んでいると、
中から年輩の女の人が出てきて、わたしに声を掛けました。
「お嬢ちゃん、ここは初めて?
今ちょっと混んでるけど、中で座って待ってたらすぐだから」