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風に煽られた水面みなものように、お兄ちゃんの瞳が揺らめきました。

「……なに言ってるんだ。俺は……お前を無茶苦茶にしてしまう」

「いいよ。無茶苦茶にして」

お互いに正気を失っていたのかもしれません。
もの凄い事を言い合っていました。

「ああ」と大きなため息を吐いて、お兄ちゃんは背を向けました。

「これ以上……情けないところを見ないでくれ」

そしてそのまま、ドアを開けて家に消えていきました。
わたしはしばらくのあいだ、ほうけたように立っていました。
わたしではお兄ちゃんを助けられないのか……と思いながら。

お兄ちゃんがボロボロになるまで命を懸けて愛した人、
駆け落ちをしてまでいっしょになろうとした人、
それなのに、あの女は、お兄ちゃんより神様を選んだのです。

目の前の扉に、色素の薄い、妖精のような姿が浮かびました。
赤く燃える鉄のような塊が、胸から喉にせり上がってきます。
わたしは、父親以外に初めて、目の眩むような憎悪を抱きました。

のろのろと家に入り、階段を上がって、お兄ちゃんの部屋のドアを開けました。
お兄ちゃんはベッドに横たわって、放心していました。
お兄ちゃんとあの女がセックスをしていたベッドに。

耐えられなくなって、お兄ちゃんの手を取りました。
お兄ちゃんは驚いた顔をしましたが、手を引かれるままに起き上がりました。
わたしはそのまま、お兄ちゃんを自分の部屋に引っ張っていきました。

部屋の真ん中で、お兄ちゃんと手を繋いでいると、名前を呼ばれました。

「○○?」

わたしは心臓が跳ね上がって、飛び上がりそうになりました。
言葉など、なにも用意していません。

「え……あ……お兄ちゃん、耳掃除、してあげる」

わたしは耳かきを出してきて、ベッドの上に正座しました。

「ん……頼む」

お兄ちゃんは目をつぶって、わたしの膝に頭を載せました。
お兄ちゃんの耳は、汚れていました。

あの女は耳掃除もしてあげなかったのか、と思いました。
けれど、その名前をお兄ちゃんの前で口にすることはできません。

両方の耳を綺麗にし終わると、お兄ちゃんは起きあがりました。

「○○、替わろうか」

「……わたしは、いい」

今お兄ちゃんに耳たぶをいじられたら、声が出てしまいそうでした。

「それより……腕枕、して」

別れが近かったせいかもしれません。
お兄ちゃんは黙って、わたしの言うとおりにしてくれました。

お兄ちゃんの肩に顔をうずめ、たくましい胸に取りすがると、
お兄ちゃんの腕に抱きすくめられているようでした。
お兄ちゃんの汗くさい匂いがしました。

どくんどくんと高鳴る鼓動が、どちらのものか判らなくなりました。
なにもかも忘れてしまいそうなあたたかさと、安息がありました。

抱きつこうとして、がくっ、と腕が空を切りました。
目を開けると、お兄ちゃんは居なくなっていました。
いつの間にか、わたしは眠っていたのです。

お兄ちゃんは行ってしまった……わたしは自分の膝を抱いて、
目を閉じました。涙は湧いてこず、胸の痛みだけがありました。

夜になって、帰宅した父親に、お兄ちゃんとgさんが家を出たことを、
簡潔に告げました。父親はふん、と鼻を鳴らしただけでした。
勘当した息子にはもう興味がない、と言わんばかりに。

けれど、お兄ちゃんとわたしの裏切りを、父親は決して忘れませんでした。
父親が居る日は、夕食の度に、責め苦がわたしを待っていました。
小言でもなく、説教でもなく、愚痴に近い繰り言でした。

「△△は俺を裏切った。お前も最初からグルだったんだろう。
 親を馬鹿にしやがって。大人しい顔をして、恥ずかしくないのか、
 この裏切り者が……」

わたしが席を立つまで、こんな台詞が延々と続くのです。
毎回毎回よくも同じことを繰り返せるものだと、驚嘆するほどでした。
こんな台詞を聞かされて、食事を味わえるはずがありません。
わたしは夕食を、わずか5分で済ませられるようになりました。

寝ている時に夢をめったに見ないわたしが、たまに夢を見るようになりました。
いつも決まって同じ夢です。

どこか判らない薄闇の中に、わたしは立っています。
わたしより背の高い、人影が目の前に現れます。
父親です。
父親はいつもの繰り言を始めます。

わたしはなぜか、手に小さなナイフを持っていました。
わたしは渾身の力を込めて、ナイフを父親のお腹に突き立てます。
いえ……突き立てようとするのですが、力が入りません。
水の中にいるかように、緩慢な動作でナイフを突き出しても、
5ミリぐらいしか刺さらないのです。

父親は自分のお腹にちらりと視線を落として、
「お前は親になんてことをするんだ、恥ずかしくないのか、
 この人殺しが……」
と、繰り言を続けます。

いつもここで、わたしは目覚めます。
荒い息が、しばらく止まりません。
全身が冷たい汗でびっしょり濡れています。
わたしは自分が狂ってしまったのか……と思いました。

この夢を、わたしはその後数年間、月に一度の割合で見ることになりました。
これ以上の地獄を、わたしは知りません。


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