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しかしこの頃のわたしは、めげるという事を知りませんでした。
深呼吸して落ち着いてから、ジョークを頭の中でシミュレートし、
抑揚や声の大きさを考えて、本にマーカーで書き込みました。

喉がかれるまで練習した挙げ句、なんとか、やや不自然かな、
というレベルにまで達しました。

数日後、昼休みの教室で、待ちに待ったチャンスが巡ってきました。
女の子のグループが、固まって談笑している側に腰を下ろし、
会話の途切れる頃合を見計らって、とっておきのジョークを披露しました。

突然、話し始めたわたしに、教室中の視線が集まりました。
わたしの声に耳を傾けたみんなは、あっけに取られているようでした。
わたしが最後まで言い終わると、教室に、死の沈黙が舞い降りました。

クラスメイトたちは、わたしから目を逸らし、何も言いませんでした。
おそらくみんなは、わたしの正気を疑っていたんじゃないか、と思います。

この時、わたしが話したジョークが何だったのか、この後、
わたしが何をしたのか、なぜだかどうしても、思い出せません。
どうやら、忌まわしい記憶として、封印されてしまったようです。

それでもわたしは、諦めませんでした。諦める訳にはいきませんでした。
同じような事が何度か続いた後、ある日の国語の授業で先生が、
家で父親をどういう風に呼んでいるか、とみんなに聞きました。

クラスメイトが口々に「お父さん」「お父ちゃん」「親父」「パパ」などと 声を上げました。
わたしは、前に読んだ落語の本を思い出し、一通りみんなが言い終わって、
ざわめきが静まってから、できるだけ大きな声を出しました。

「おとっつぁん!」

一瞬、教室は静まり返り、続いて爆笑の渦に包まれました。
わたしは、げらげら笑うクラスメイトの顔を見ながら、自然と微笑みました。

それからだんだんと、タイミングを見て、真面目な顔でボケた事を言うのに 慣れて来ました。

まだクラスメイトたちと、打ち解けて話せるようにはなっていませんでしたが、
わたしにとっては、一大進歩でした。

夏の初め。
わたしは、6年生になってからずっと、心に温めていた計画を実行しました。
夏休みに、お兄ちゃんの所に行きたい、と、父親に訴えたのです。
父親は、小学生のわたしに独り旅ができる訳がないと、鼻で笑いました。

わたしは、攻略目標を変更しました。
軽蔑している父親に、それ以上、乞いたくなかったからです。

遅く帰ってくるお母さんを待ち構え、
半年も会っていないお兄ちゃんに会いたい、と訴えました。
お兄ちゃんは、春休みに帰って来ませんでした。
高校受験を控えて、夏休みにも帰って来るとは思えません。

お母さんがすんなり許してくれる、とは、最初から期待しませんでした。
それでも、しつこく1ヶ月も嘆願を続けると、根負けしたようです。
お母さんは、ふだん気にしたこともないのに、
夏休みに遊んで勉強は大丈夫か、と尋ねて来ました。

わたしは、実技科目以外はオール5を取る、と約束しました。
そして家計簿を見せ、半年のあいだに、家計を節約して、
十分な旅費を貯めた事実を明かしました。

父親は夕食の席で、お母さんから話を聞いて、
「勝手にしろ。俺は知らん」と言いました。

わたしは時刻表を買ってきて、旅行の計画をひとりで立てました。
ページをめくりながら、わたしの心は、すでに遠くD地方に飛んでいました。

半年のあいだに、わたしの髪は、あのCさんより長くなっていました。
背も少し伸びて、服や靴が窮屈になって来ました。

わたしはある日曜日、新しい服と靴を買いに行くことにしました。
外はもう、日射しの厳しい季節になっていました。
自転車で行くのは諦めて、日傘を差してバス停に向かいます。
思い出せる限り、あのデパートに一人で行くのは初めてでした。

上りのエスカレーターに進みながら、その横のワゴンに目が止まりました。
若者向けのアクセサリーや化粧品が売っていました。

鏡に自分の顔を映すと、血の気の薄い唇が目に付きました。
わたしは、唇の色を明るくするリップクリームを1本、買いました。

婦人服のフロアに向かうわたしは、すでに買う服のイメージを決めていました。
色のコーディネートに自信が無かったので、シンプルなデザインで、
袖口と襟だけが薄い水色の、真っ白いワンピースを探しました。

店員に声を掛けられないように、早足で売場をぐるぐると回りました。
わたしの目に、イメージにぴったりのワンピースが飛び込んで来ました。
わたしは躊躇せず、店員に「あれ、下さい」と指さしました。
ワンピースに合わせた、白いローヒールの靴も、買いました。

終業式の日、わたしはオール5の通知票をお母さんに見せ、
夏休みが始まって1週間で、宿題をすべて片付けました。

わたしはお母さんから、お兄ちゃんの詳しい住所と電話番号のメモを貰いました。
白いワンピースで正装し、白い麦わら帽子を被ると、身が引き締まりました。
冒険の旅の、始まりです。


おめでとう
2017-10-12 22:47:56 (11ヵ月前) No.1
すごい!
2018-05-15 22:41:29 (4ヵ月前) No.2
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