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それから何を聞き、自分が何をしたのか、細かい記憶がはっきりしません。
わたしは叫び声で両親を起こして、父親に電話を替わりました。
両親はその後、慌ただしく服を着替え、外に出て行きました。
我に返ると、わたしは玄関のマットの上に取り残されて、蹲っていました。

胸が痛いほど高鳴り、全身がざわざわしました。
お兄ちゃんがもう二度と、帰って来ないような気がしました。
わたしはその場から動く事が出来ず、膝を抱えてお兄ちゃんの帰りを待ちました。

長い長い夜でした。朝はやって来ないかもしれない、と思いました。
明け方になって、わたしが朦朧としていると、両親が帰って来ました。
その後ろに、お兄ちゃんの姿が見えました。顔が腫れていました。

わたしが呆けたように見上げると、父親が「早く寝ろ」と言いました。
わたしは追い立てられるように、自分の部屋に戻りました。

お兄ちゃんが帰って来た。帰って来た。
わたしはそう心の中で呟きながら、ベッドに倒れ伏しました。

起きてみると、もう昼過ぎでした。わたしは服を着替え、洗面所に行きました。
早くお兄ちゃんの顔を見たい、という思いと、お兄ちゃんが変わってしまった んじゃないか、という怖れが、胸の奥で鬩ぎ合いました。

お兄ちゃんの部屋の前で、うろうろしてから、まだ髪を手入れしていない事を
思い出しました。
部屋に戻って髪をブラッシングしていると、またぼーっとして来ました。
何回髪を梳いたのか分からなくなって、何度もやり直しました。

腕を動かすのに疲れて、身繕いする事が何も無くなって、やっとお兄ちゃんの
部屋に向かいました。
ドアの前に立つと、また胸が高鳴って、息が苦しくなりました。

「お兄ちゃん」と小声で言って、ノックしました。返事はありませんでした。
そっとノブを回して、ドアを引きました。
お兄ちゃんは、服を着たまま、背中を向けて、ベッドに横になっていました。

近寄って、「お兄ちゃん」と呟きました。
お兄ちゃんは身じろぎして、疲れた声で言いました。

「○○か……。
 悪い。心配かけた。
 ……いま、一人になりたいんだ。
 出て行ってくれ」

お兄ちゃんはわたしの顔を、見ようともしませんでした。
わたしは黙って部屋を出て、ドアを閉めました。

お兄ちゃんに拒絶された、と思いました。
わたしは心の中で、でもお兄ちゃんは帰って来た、帰って来た、と、
呪文のように繰り返しました。

それからの数日間は、悪い夢の中に居るようでした。
お兄ちゃんの顔を見られるのは、夕食の席だけでした。
おにいちゃんの顔はずっと、硬くこわばっていました。
この数日間だけは、両親共に早く帰宅していて、食卓を囲んでいました。

父親はお兄ちゃんを罵倒し、お母さんの育て方のせいだと言いました。
お母さんが言い返して、汚い言葉の応酬になりました。
わたしはこんな事なら、お兄ちゃんと二人だけの穏やかな夕食の方が、
ずっとましだと思いました。

断片的な言葉から、何が起こったのか朧気に分かりました。
お兄ちゃんは、木刀で人に大怪我をさせていました。
相手にも非があったので、なんとか示談になりそうだ、という事でした。

あの夜から数日経った夕食後、父親が一方的に宣告しました。

「△△(お兄ちゃんの下の名前)、
 お前は此処に置いておけん。
 近所の手前もある。
 婆ちゃん(父親の母親)の所で預かってもらう事になった。
 あっちには俺の出た良い学校もある。
 身を慎んで受験勉強しろ。
 高校を出る頃には、ほとぼりも冷めてるはずだ」

お兄ちゃんは、歯を食いしばって聞いていました。
わたしは突然の衝撃に、気が遠くなりそうでした。
わたしは初めて、大きな声で父親に主張しました。

「お兄ちゃんが居なくなっちゃうの?
 だったら、わたしも付いて行く!」

父親は、ぎょろりとこちらを見て、言いました。

「何を言ってる。
 お前まで余所に遣ったら、それこそなんて言われるか分からん。
 この話はこれで終わりだ。
 △△、今夜の内に荷物をまとめておけ。
 明日の朝、発って貰う」

頭の中が、ぐるぐると回りました。その場で吐きそうでした。
お兄ちゃんが居なくなってしまう、居なくなってしまう。
その言葉だけが、耳の奥で繰り返し繰り返し聞こえました。

椅子に座ったまま呆けているわたしの手を、お兄ちゃんが取りました。
手を引かれて、自分の部屋に戻りました。
お兄ちゃんに促されて、わたしは自動人形のようにベッドに腰を下ろしました。
お兄ちゃんは立ったままでした。

お兄ちゃんの膝を眺めていると、目の奥が熱くなってきて、涙が湧いて来ました。
その時、お兄ちゃんが話し掛けて来ました。


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