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「お兄ちゃん、まだ、時間ある?」

「あわてるな。朝飯の時間ぐらいはあるさ」

わたしは時間を無駄にしたくなくて、急いで洗面所に下りました。
顔を洗ってダイニングに入ると、何も支度してありません。

「朝ご飯、これから支度するの?」

「たまには駅前の喫茶店でモーニングセットでも食べよう」

「うん……良いね」

わたしは自分の部屋に戻って服を着替え、リップを塗りました。
お別れの日だというのに、これからデートが始まるように、
胸が沸き立っていました。

階段を下りていくと、お兄ちゃんが下で待っていました。

「ああ……それ、こないだ買ったワンピースだな。
 これから旅行に行くみたいだ」

わたしはお兄ちゃんに、笑い返しました。

「駅までね」

肩を並べて、バス停までの道のりを歩きました。

「明るい時に見ると、夜の散歩の時とはぜんぜん違って見えるな」

「うん。なんだか、違う国の違う街みたい……」

「今度帰って来た時は、また少し変わってるのかな。
 お前も背が伸びてるだろうし」

「冬休みまで、4ヶ月しかないよ?」

「お前は今が成長期だぞ。一気に背が伸びて追いつかれるかもな」

「そんなわけないよ〜」

この時、お兄ちゃんとの身長差は25センチ以上ありました。
バスが来ました。乗り込んでみると、空いた席は1つしかありませんでした。

「座れ」

「いっしょに立ってる」

「いいから座れって。ふらふらしてるの見てると危なくてたまらん」

わたしは仕方なく腰を下ろしました。
次のバス停で腰の曲がったお婆さんが乗ってきたので、
わたしは席を立ちました。

「席なくなっちゃった」

「しょうがないな……」

お兄ちゃんは吊革を掴んでないほうの手で、わたしの肩を押さえました。
わたしは手すりを握っていましたが、バスが大きく揺れるたびに、
自然とお兄ちゃんの胸にぶつかりました。

「お前……1人でバスに乗ってる時はどうしてるんだ?」

「手すりにつかまってる」

「揺れるたびにひっくり返りそうで見てて恐いよ」

「……たまに、席を譲られることある」

お兄ちゃんが笑い声をあげました。
席に座っている人が振り向くくらい大きな声だったので、
わたしはお兄ちゃんの脇腹をぎゅっとつねりました。

「痛っ!」

「他のお客さんに迷惑」

「少しは手加減しろよ……」

駅前のロータリーでバスを降りました。
セルフサービスのカフェで、サンドイッチモーニングセットを2人前。
お兄ちゃんはハムサンド、わたしはツナサンドです。

わたしは砂糖を入れる前に、濃いコーヒーを一口飲んで顔をしかめました。

「砂糖を入れないのか?」

「お砂糖入れる前に、一口飲む習慣なの」

「なんでそんなことするんだ……?」

お兄ちゃんは理解できないといったふうに、首を傾げました。

「砂糖もミルクも入れないで飲むと、美味しいかどうかわかるから」

いつもブラックで飲むお兄ちゃんは、ふーんと言ってカップに口を付けました。
本当は、お兄ちゃんの真似をしただけでした。

「半分食べて。お兄ちゃん、それだけじゃ足りないでしょ?」

わたしはツナサンドの皿を押しやりました。

「お前、それっぽっちで足りるのか?」

「お兄ちゃんみたいに食べられないよ。
 お兄ちゃんは、いつもわたしの3倍は食べてる」

「まぁ……俺も育ち盛りだからなぁ……それぐらい普通だ」

わたしはサンドイッチを一切れ手にとって、差し出しました。

「それとも、『あ〜ん』ってしてほしい?」

「ば、ばかっ。恥ずかしいことすんなよ!」

お兄ちゃんはわたしの手から、素早くサンドイッチを奪い取り、
口に入れました。
赤くなったお兄ちゃんの顔を見て、わたしはくっくっと笑いました。

お兄ちゃんはサンドイッチを呑み込んで、言いました。

「○○……今日ははしゃいでるな。こんなの始めてじゃないか?」

「……変、かな?」

「変……ってことはないけど、ワケがわからない。
 いつも、別れる日はもっと沈んでただろ?」

「うん……わたしにも、よくわからない。
 最近、お兄ちゃん、わたしを避けてたでしょ?」

「それは……」

「でも、ゆうべいっしょに散歩して、そうじゃない、ってわかったから。
 お兄ちゃん、わたしが嫌い?」

「そんなわけないだろ」

「だったら……それで十分」

目をつぶると、熱いものが胸にこみ上げてきました。


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