186:
「お兄ちゃん、まだ、時間ある?」
「あわてるな。朝飯の時間ぐらいはあるさ」
わたしは時間を無駄にしたくなくて、急いで洗面所に下りました。
顔を洗ってダイニングに入ると、何も支度してありません。
「朝ご飯、これから支度するの?」
「たまには駅前の喫茶店でモーニングセットでも食べよう」
「うん……良いね」
わたしは自分の部屋に戻って服を着替え、リップを塗りました。
お別れの日だというのに、これからデートが始まるように、
胸が沸き立っていました。
階段を下りていくと、お兄ちゃんが下で待っていました。
「ああ……それ、こないだ買ったワンピースだな。
これから旅行に行くみたいだ」
わたしはお兄ちゃんに、笑い返しました。
「駅までね」
肩を並べて、バス停までの道のりを歩きました。
「明るい時に見ると、夜の散歩の時とはぜんぜん違って見えるな」
「うん。なんだか、違う国の違う街みたい……」
「今度帰って来た時は、また少し変わってるのかな。
お前も背が伸びてるだろうし」
「冬休みまで、4ヶ月しかないよ?」
「お前は今が成長期だぞ。一気に背が伸びて追いつかれるかもな」
「そんなわけないよ〜」
この時、お兄ちゃんとの身長差は25センチ以上ありました。
バスが来ました。乗り込んでみると、空いた席は1つしかありませんでした。
「座れ」
「いっしょに立ってる」
「いいから座れって。ふらふらしてるの見てると危なくてたまらん」
わたしは仕方なく腰を下ろしました。
次のバス停で腰の曲がったお婆さんが乗ってきたので、
わたしは席を立ちました。
「席なくなっちゃった」
「しょうがないな……」
お兄ちゃんは吊革を掴んでないほうの手で、わたしの肩を押さえました。
わたしは手すりを握っていましたが、バスが大きく揺れるたびに、
自然とお兄ちゃんの胸にぶつかりました。
「お前……1人でバスに乗ってる時はどうしてるんだ?」
「手すりにつかまってる」
「揺れるたびにひっくり返りそうで見てて恐いよ」
「……たまに、席を譲られることある」
お兄ちゃんが笑い声をあげました。
席に座っている人が振り向くくらい大きな声だったので、
わたしはお兄ちゃんの脇腹をぎゅっとつねりました。
「痛っ!」
「他のお客さんに迷惑」
「少しは手加減しろよ……」
駅前のロータリーでバスを降りました。
セルフサービスのカフェで、サンドイッチモーニングセットを2人前。
お兄ちゃんはハムサンド、わたしはツナサンドです。
わたしは砂糖を入れる前に、濃いコーヒーを一口飲んで顔をしかめました。
「砂糖を入れないのか?」
「お砂糖入れる前に、一口飲む習慣なの」
「なんでそんなことするんだ……?」
お兄ちゃんは理解できないといったふうに、首を傾げました。
「砂糖もミルクも入れないで飲むと、美味しいかどうかわかるから」
いつもブラックで飲むお兄ちゃんは、ふーんと言ってカップに口を付けました。
本当は、お兄ちゃんの真似をしただけでした。
「半分食べて。お兄ちゃん、それだけじゃ足りないでしょ?」
わたしはツナサンドの皿を押しやりました。
「お前、それっぽっちで足りるのか?」
「お兄ちゃんみたいに食べられないよ。
お兄ちゃんは、いつもわたしの3倍は食べてる」
「まぁ……俺も育ち盛りだからなぁ……それぐらい普通だ」
わたしはサンドイッチを一切れ手にとって、差し出しました。
「それとも、『あ〜ん』ってしてほしい?」
「ば、ばかっ。恥ずかしいことすんなよ!」
お兄ちゃんはわたしの手から、素早くサンドイッチを奪い取り、
口に入れました。
赤くなったお兄ちゃんの顔を見て、わたしはくっくっと笑いました。
お兄ちゃんはサンドイッチを呑み込んで、言いました。
「○○……今日ははしゃいでるな。こんなの始めてじゃないか?」
「……変、かな?」
「変……ってことはないけど、ワケがわからない。
いつも、別れる日はもっと沈んでただろ?」
「うん……わたしにも、よくわからない。
最近、お兄ちゃん、わたしを避けてたでしょ?」
「それは……」
「でも、ゆうべいっしょに散歩して、そうじゃない、ってわかったから。
お兄ちゃん、わたしが嫌い?」
「そんなわけないだろ」
「だったら……それで十分」
目をつぶると、熱いものが胸にこみ上げてきました。