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お兄ちゃんと並んで、台所で料理の練習をするのは幸せでした。
ジャガイモの芽の取り方や、皮の剥き方も教えてもらいました。
手のひらの上で、豆腐を賽の目に切る事が出来るようになりました。

でも、和やかな雰囲気は、たまに父親が帰ってくると破られました。
お兄ちゃんは父親が居ると席を外してしまうのですが、
父親がお兄ちゃんを捕まえて、ぐじぐじとお説教を始める事もあります。

わたしはなぜ、この男は同じ事ばかり何度も繰り返し言うのだろう、
と不思議に思いました。

お兄ちゃんはわたしに、向こうに行っているようにと言いますが、
わたしはその場を動きませんでした。

なんだか、目を離すと、とんでもない事が起こるような気がしました。
お兄ちゃんは黙ってお説教に耐えていましたが、
どこか体の中が、ぐつぐつ煮えたぎっているように見えました。

お母さんは、居ても居なくても何も変わりませんでした。
お母さんにとっては、わたしたちは透明人間と同じだったのでしょう。

そんな冬のある日、わたしは、夜中に尿意で目が覚めました。
わたしが最後におねしょをしたのは、1年前の事でした。
シーツや下着をこっそり一人で洗おうとして、
お兄ちゃんに見られた時の、あの恥ずかしさは忘れられません。

わたしが部屋を出ようとすると、階下で何か物音がしました。
泥棒かと思って、そーっと覗いてみました。
お兄ちゃんが外出姿で、玄関から出ていくところでした。

トイレでしゃがみながら、お兄ちゃんはこんな夜中に何処に行くのだろう、
と思いました。
帰ってきたら聞いてみようと決めて、わたしはベッドの中で目を開けていました。
でも、お兄ちゃんはなかなか帰って来ず、わたしはいつしか眠りに落ちていました。

朝、目覚めると、お兄ちゃんはいつも通りの顔で挨拶して来ました。
朝ご飯を食べながら、昨夜の事は夢だったのだろうか、と思いました。
でも、わたしはあんなにくっきりした夢を見た事がありません。

その日のわたしは授業中、ずっとぼんやりしていました。
昨夜遅くに起きていたせいか、だんだん眠くなってきて、
給食が済むと、午後の授業ではただ目を開けているだけでした。
先生に指名されても、何を質問されているか分からないぐらいでした。

放課後になると、わたしは真っ直ぐ家に帰り、ベッドに入りました。
今夜はもっと遅くまで、起きていなくてはならない、と思いました。
そのために、お兄ちゃんが帰って来るまで、ずっと寝ていました。

夜が更けてから、暖かいコートを着て、忍び足で家の外に出ました。
わたしの足では、追い掛けてもお兄ちゃんに追い付けないからです。
物陰でじっと立っていると、爪先が冷えてきて目が冴えました。

どれぐらいそうしていたのか、ふと気が付くと、玄関の扉が音もなく開きました。
見ていると、短いコートを着たお兄ちゃんが、そっと出て来ました。
わたしは足音を立てないようにして、お兄ちゃんの行く手に回り込みました。

「お兄ちゃん」

わたしが囁くと、お兄ちゃんは棒立ちになりました。

「っ! ……○、○○?
 どうしてこんな所に居るんだ?」

「お兄ちゃんこそ、こんな夜遅くに、
 毎晩何処に行ってるの?」

わたしは、真剣な目で、お兄ちゃんの目を見ました。
お兄ちゃんが、何か危ない事に巻き込まれているんじゃないかと、心配でした。

街頭の薄明かりに照らされたお兄ちゃんの顔は、焦っているようでした。

「……散歩さ。眠れなかったから、
 ちょっと風に当たろうと思って」

嘘でした。嘘だと、わたしには分かってしまいました。

「じゃあ、わたしも連れて行って。
 わたしも昼間寝過ぎて眠れない」

「ばっ、ばか。夜中に散歩するなんて、危ないだろ」

「お兄ちゃんと一緒なら、危なくない。
 お兄ちゃん、強いんでしょ?」

お兄ちゃんはしばらく迷っているようでしたが、やがて、
ため息をついて、苦笑いしながら言いました。

「……そうだな。
 今夜は二人で夜のお散歩と行くか」

お兄ちゃんと手を繋ぎました。
見慣れない、寝静まった夜の街は、なんだか知らない世界のように見えました。
国道の側に来ると、車のヘッドランプが、巨大な動物の目のように流れて行きました。

星はあまり見えませんでしたが、丸い月が出ていました。
お兄ちゃんとわたしだけが、この単色の世界に取り残されているような、
錯覚をしました。
お兄ちゃんの囁きが聞こえました。

「○○、手、寒くないか?」


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