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お兄ちゃんはわたしの頭を抱きかかえ、しきりに髪を撫でました。
小さなつぶやきが聞こえてきました。
「すまん……すまん……」
謝ることなんてなんにも、お兄ちゃんはしてないのに、と思いました。
「お兄ちゃん、お金いるでしょ?」
「ん……ああ、バイト代の残りもあるし、お前は心配しなくていいよ」
「……お父さんの預金を解約すればいい。
1通ぐらい通帳がなくなったって、どうってことない」
「ん〜、しかし、それは……」
お兄ちゃんは思案しているようでした。
家出するのに父親のお金を持ち出すのは、抵抗があるのでしょう。
「お父さんの世話になるのは、いや?」
「まあな」
「わたしの入院費はただになったけど、ホントならもっとかかってたと思う。
その分を、わたしからお兄ちゃんに上げる。そう思えばいいよ」
そうして、スペアキーや組み合わせ番号の隠し場所を、お兄ちゃんに教えました。
父親の金を盗むことに、罪悪感はちっとも湧いてきませんでした。
お兄ちゃんが、不意にくっくっと笑いました。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「いや……お前は知恵が回るなぁ、と思ってさ。
悩んでいたのが馬鹿みたいだ。
あっという間に未来が変わっていきそうで……さばさばするよ」
わたしは座り直して、お兄ちゃんの顔を見ました。
ずっと見たかった、お兄ちゃんの晴れ晴れとした笑顔を。
悪巧みに相応しく、わたしもにやりと笑いました。
「お兄ちゃんのためなら、なんだってできるよ」
お兄ちゃんとわたしはこの時、父親に対抗する同盟者でした。
不安よりむしろ、血の沸き立つような高揚感がありました。
言葉通り、お兄ちゃんのためなら、どんなことでも顔色ひとつ変えず、
わたしはやってのけたでしょう。
けれど、別れ際にお兄ちゃんは浮かない顔になりました。
「しばらく……ここには顔を出せなくなる。
連絡先が決まったら、なんとかして伝えるからな」
「うん……退院して元気になったら、
お兄ちゃんのお部屋に、遊びに行ってもいい?」
「もちろん。親父にはバレないようにな」
「また、会えるね。楽しみにしてる」
お兄ちゃんが見舞いに来れなくなったのは残念でしたけど、
わたしには、新しい目標が生まれました。
数日経って、病室に突然、父親が現れました。
怒りのせいか、かなり興奮していました。
丸椅子に腰を下ろそうともせずに、父親はわたしを睨みつけて言いました。
「△△が急に居なくなった。
置き手紙を残して通帳まで持ち出しやがって……。
△△と仲が良かったお前は、何か聞いているだろう?」
尋問されるのは予想通りでした。
わたしは能面のように表情を引き締め、短く答えました。
「知らない」
「そんなはずがあるかっ! 隠し立てするとただじゃおかんぞ!
△△みたいに親を裏切るのか?」
親だったら……子供になにをしても良いんですか? お父さん。
そう言いたいところをこらえて、わたしは繰り返しました。
「知らない」
父親の声が高すぎたせいでしょう。
同じ病室の誰かがナースコールをしたのか、
担当の看護婦さんがやってきて、父親を病室から追い出しました。
わたしは父親と対面すると、無意識に余分な力が入るせいか、
後で肩や首が痛くなってきます。
わたしがベッドの中で脱力してぼんやりしていると、
隣のベッドの付き添いのおばさんが、声をかけてきました。
「大丈夫? 顔色が悪いけど」
「……はい、もう大丈夫です」
その後、わたしのことでどんな噂が流れたのかは知りません。
けれど、同じ病室に付き添いに来ている人たちや、
看護婦さんたちは、奇妙なほどわたしに優しくなりました。
やがて、夏休みも終わりに近づき、退院の日が訪れました。
迎えに来たのは、UとVでした。
「やっと退院やな」
「○○ちゃん、よかったねー」
「うん、来てくれてありがとう」
Vがにこにこしているのはいつものことですが、
その日はUが気持ち悪いほどにやにやしていました。
「どうしたの? U」
「ぐふふぅ、お届け物があるんや、『お兄ちゃん』からやで」