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小児科病棟では2年半のうちに、看護婦さんがだいぶ入れ替わっていました。
目新しいことは何ひとつ起こりません。
検温、病院食、検査、投薬……刑務所のような、規則正しい毎日でした。
いえ……もしかすると、
わたしが周囲の出来事に、気を留めなくなっていたのかもしれません。
白いシーツとクリーム色の天井、
そして洗いざらしのカーテンに囲まれた四角い空間が、
わたしの世界のすべてでした。
世界に彩りが戻るのは、UとVが見舞いに訪れたときだけでした。
「○○! 生きてるかー!」
入ってきたUの声は、病室で立てるには大きすぎました。
わたしが人さし指を立てて唇に当てると、Uは首を縮めました。
「ごめんごめん。これ、お見舞いや。
なにが食べられるんかわからへんかったからな」
Uはそう言って、花束を差し出しました。
「ありがとう。良い匂い……」
Uの後ろを見ると、Vが白い木箱を胸に抱いています。
場所柄を考えると、いかにも不吉でした。
「V……それ、なに?」
Vは注目を浴びるのを待ちかまえていました。
「うふふふー。腎臓病にはスイカがいいんだよー。
おしっこが出るんだってー。
○○ちゃんのお見舞いに行くって言ったら、
ママが買ってきてくれたのー」
木箱に詰め物をして納められていたのは、見事なスイカでした。
「これ……もしかして、もの凄く高くない?」
「そうなのかなー?」
真冬のスイカは完全に時季はずれです。
Uも呆れた顔でうんうんうなずいています。
「Vの家って……やっぱりブルジョアなんだね」
「ブルジョアってなにー?」
「ブルジョアジー。資本家階級のこと。
プロレタリアート革命が起きたら人民の敵として死刑ね」
「死刑ーー!」
「プロレタリアートは労働者階級のこと。
わたしもUも働いてないから、Vを処刑したりしないよ」
ホッとするVを横目にわたしとUは大笑いして……
やっぱり看護婦さんに怒られました。
2人が帰った後、看護実習生が来て、わたしの顔を見て驚きました。
「○○ちゃん……よかった」
「……? なにがですか?」
「わたしが担当になってから、○○ちゃんの笑った顔見るの、
今が初めて。やっぱり笑ってたほうがいいよ」
わたしはそれまで、よっぽど不景気な顔をしていたようです。
とはいっても、面白いこともないのに始終ニタニタしていたら、
気持ち悪いだけです。
出歩くこともできず、ただひたすら寝ているしかありません。
2回目の腎生検は、慣れもあってスムーズに終わり、
今度は直後の出血がなかったので、絶対安静からは24時間で解放されました。
気晴らしは、UやVのお見舞いと読書しかありません。
眠っている時間以外は、いつでもなにか読んでいました。
なにか読んでさえいれば、余計なことを考えないで済むからです。
前の時と同じように、売店経由で新刊を取り寄せ、
読む本がなくなると、古新聞を貰って隅から隅まで目を通しました。
本の虫というよりは、むしろ活字中毒になっていました。
半月ほど経つと、窓際のベッドの患者が退院していきました。
看護婦さんが何人もやってきて、わたしのベッドを移動しました。
冬の穏やかな日の射す窓際のほうが、
いくらかでもわたしの気晴らしになる、とだれかが考えたのでしょう。
わたしにしてみれば、日射しでも枕元灯でも同じことでした。
むしろ、斜めから射す冬の日のほうが、眩しくてやっかいでした。
ある日の午後、わたしは逆光を避けるために、
上体を起こして本のページに視線を落としていました。
ふと、手元に影が差しました。
わたしは反射的に顔を上げて、日光を遮った何かに目を遣りました。
そこに居るはずのない人が、そこに居ました。一番会いたくて、
会いたくない人が、無言で、微かに頬を緩めて、立っていました。
「……お兄ちゃん?」
半信半疑でそう口にして、ハッとしました。
「○○……また『お兄ちゃん』って呼んでくれるんだな」
お兄ちゃんは、きらめくような笑顔を見せました。
わたしが言い直そうかとためらって唇を噛んでいると、
お兄ちゃんはベッドに腰を下ろしました。
「無理すんな。呼びたいように呼べばいい」
「でも、お兄ちゃん……どうしてここが?」
わたしが入院したことは、田舎に連絡していませんでした。
「UちゃんとVちゃんがな……」
「あの2人が?」
「俺が見舞いに来ないのを不審に思って、わざわざ知らせてくれたんだ。
前にYさんやXさんとアドレスを交換してたからな」
「そうだったの」
「○○……俺は怒ってるぞ」
「え?」