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海水浴の日。
早く起きると、外は海水浴日和の良いお天気でした。
曇ってくるかもしれないと期待して荷物に入れておいた、
浮き輪が無駄になるかもしれないと思いながら、
お兄ちゃんと一緒に駅に向かいます。

券売機の所まで来ると、そこで見た事の無い人たちが待っていました。
いつもお兄ちゃんと出かける時は二人きりだったので、
わたしが驚いて立ち竦んでいると、
お兄ちゃんはわたしの背中を押してその前に立たせ、言いました。

「これが俺の妹の○○。
 俺に似て賢くて真面目だけど恐がりだからな、イジめんなよ?」

いつもはわたしと同じぐらいゆっくりと、静かに話すおにいちゃんの口調が、
早口で楽しげに高くなっていました。見ると、顔が笑っています。

正面に立っていたスポーツ刈りの男の人が、
お兄ちゃんに向かってパンチを繰り出す振りをし、こう言いました。

「そんな訳ないだろ。お前と一緒にすんなよ!」

怒ったような事を口にしても、顔中がにこにこしていました。
お兄ちゃんより少し背が低く、肩ががっちりしています。
目や口や鼻一つ一つが少し大きくて丸く、愛嬌のあるクマのようでした。

お兄ちゃんがわたしに男の人の名前を告げ、
彼が、お兄ちゃんの冗談の中で学校一おかしな事をするという、
部活仲間のAさんだと分かりました。

わたしは、親戚の人に初めて紹介された時のように、帽子を取って、
「はじめまして。○○と申します。よろしくお願いします」
とお辞儀しました。

Aさんはわたしには返事をせずに、お兄ちゃんに向かって腕を振り、
「お前と全然似てねぇな! どっかでさらって来たんじゃないのか?」
と冗談を言いました。
喋るたびに腕を振るので、近づくと撥ね飛ばされそうでした。

「馬鹿か! そんな訳あるか!
 ○○、コイツの話を真に受けたら駄目だぞ。
 それとな。コイツらは兄ちゃんの友達だからな。
 別に緊張して礼儀正しくしなくっていいんだ」

お兄ちゃんはなんだか怒っているようでした。
わたしは「うん」と頷きましたが、正直どうしていいのか分かりませんでした。

おじさんおばさんへの挨拶のやり方は覚えていましたが、
緊張しないで気安くしゃべれる相手は、お兄ちゃんだけでした。
それにわたしには同年代の友達が居ないので、
本で覚えた堅苦しい言い回ししか知りません。

Aさんの言った事は、わたしにもすぐに冗談だと分かりました。
わたしとお兄ちゃんはあまり似ていませんが、
お兄ちゃんとお母さん、わたしと父親は顔立ちが似ていたからです。
お兄ちゃんとわたしが血を分けた兄妹である事は確かでした。

その時、Aさんの後ろにいた女の人が、前に出てきてお兄ちゃんに言いました。

「わたしたちの事は無視?
 紹介してくれんじゃなかったの?」

髪の毛を男の人のように短くした、目が大きくて溌剌とした感じの人でした。
その人はお兄ちゃんの返事を待たず、わたしに言いました。

「わたしBって言うの。よろしくね」

わたしはどう挨拶を返したらいいのか分からず、ただ「はい」と答えました。
お兄ちゃんが、Bさんは剣道部の数少ない女子部員の一人だと教えてくれました。
すると、もう一人の女の人も前に出てきて、

「わたしはC。部員じゃないけどBとは前から友達なの。
 お兄ちゃんとはあんまり話したことなかったけど、同級生。
 仲良くしてね」

と言葉を掛けてきました。

Cさんの口から出た「お兄ちゃん」という言葉は、なんだか耳慣れない響きがして、
違う人の事を言っているように聞こえました。
Cさんは真っ直ぐで綺麗な髪を肩より長く伸ばし、二重瞼が印象的でした。
お化粧していたわけでもないのに、わたしの目には、とても大人っぽく見えました。

その後、海に向かう列車に乗り、目的地に着くまでのあいだ、
自分がどんな受け答えをしたのか、よく思い出せません。
列車の中で、お兄ちゃんが作った弁当を食べましたが、何を食べたのかさえも。

思えばこの時、わたしはただ機械的に体を動かしていただけだったのでしょう。
わたしにとって、お兄ちゃんの存在は世界のほとんどを占めていましたが、
お兄ちゃんにとって、わたしは世界のほんの一部に過ぎませんでした。

考えてみれば至極当然の事で、その時まで気付かない方がどうかしています。
お兄ちゃんがわたしと顔を合わせている時間より、
お兄ちゃんが学校で友達と過ごす時間の方が長いのですから。
しかしわたしにしてみれば、それはお兄ちゃんと二人きりだと思っていた家に、
知らないあいだに知らない人が大勢住んでいると突然気付いたようなショックでした。

目的地に着いてホームに降りた時、お兄ちゃんが聞いてきました。
「酔ったか?」
わたしは黙って頭を振りました。実際少しも酔っていませんでした。
乗り物酔いを感じないほど魂が抜けていたのだろうと思います。


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